ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

通学

 昭和35年、1960年といったら、あの安保改定の年だ。この年に私の電車通学が始まった。乗り物に乗っての通学というのは前年の前半、バスに乗っての通学があったから初めてではない。しかし電車に乗って学校へいくのは初めてだった。毎朝、静岡鉄道に乗る桜橋駅は坂の上にあって、そこまで私は買って貰った自転車でいった。たかだか1,2km程なのになんで歩いて行かなかったのかというと、学校の帰りに反対にある塾へ通ったからだろう。駅からその塾までは1km位だったから塾から家へは2kmちょっとあったことになるだろうか。
 当時は駅への入り口の反対側に荷物・自転車預かりますと書いた店が2-3軒あって、そこへ自転車を預けていた。多分当時のことだからひと月300円とかそこらの値段だったのではなかっただろうか。
 静岡鉄道の電車は新清水から新静岡まで走っていて、桜橋駅は新清水から二つ目。横を国鉄東海道線が走っていた。降りるのは桜橋駅から7つめの柚木という駅だった。今では当時に比べたらこの間に駅がひとつ増えている。学校の裏は自動車免許の試験場だったか自動車学校だったから朝学校へ行く時におじさんたちもぞろぞろと歩いていたのをうっすらと覚えている。
 まだのんびりした時代だったから、電車もそんなにしょっちゅう来るわけではなくて、小学生とさして変わりのない中学一年坊主どもは学校近くの田圃の畦で鮒を捕ったりして、遊んで帰った。
 電車の中で、私は学校の図書室から借り出す本に熱中していた。そして偶に座れると前に立った人に「お荷物をお持ちしましょうか」というが礼儀だった。良い子ぶりっこだったから、しょっちゅうそうした記憶があったし、座っている人にそういわれたら持ってもらうことに誰も逡巡しなかったようだ。
 中学二年からは横浜に戻り、東横線の反町から京浜東北線の大森まで電車でいって、そこから東急バスで臼田坂下で降りた。毎朝非常に混んだ電車に乗らなくてはならず、往生した。東横線は当時、緑色のちょっと流線型に見えるような車両だった。まったく同じ電車が今は渋谷駅のハチ公前に、半分にぶった切られておかれている。
 あの車両はドアの下が丸くなっていて、混んでくるとぎりぎりに乗っている人がその扉の上に乗ってしまって扉が開かなくなる。それを外側から無理矢理に開けて、一駅乗り込む。横浜駅からの京浜東北線は、当時は茶色い四角い車両で、大森の駅は一番後ろの階段が便利だったから、一番後ろに乗ると、車掌室との間は板壁で、右端にわずかに車掌が客室内に出入りする扉がついているだけだった。非常に閉塞感に駆られるスペースでこの車両に遭遇するとうんざりしたものだ。そして電車の混みようといったらなかった。
 極最近知ったのだけれど、今はどうしているのかわからない歌手のちあきなおみはこの年同じ中学に通っていたらしい。
 翌年になると、高校受験のための早朝補習クラスが始まって、とんでもない時間の電車に乗っていったから座っていけるようになったのだけれど、あの時間におふくろは弁当を作っていたのだろうか。給食なんかなかったから、弁当を持って行かなかったときは確か菓子パンを申し込んだ記憶がある。
 高校に上がってから行き先はまた先になって、京浜東北線大井町から歩いて1.3km程あった。本当は横浜駅から京浜急行に乗って、青物横丁という駅で降りれば近いのだけれど、横浜駅では西から東まで歩かなくてはならないうえに、京浜急行が驚くほどに混んだ。あまりにもぎゅうぎゅうと乗せるので、最後には窓ガラスが割れたこともある。扉の窓が割れたこともある。
 大学に上がってからは東横線で渋谷へ出て山手線に乗るか、横浜から湘南電車か横須賀線で品川へ出て、山手線に乗って通った。どっち経由でいってもほぼ時間は変わらなかった。その時に一緒になった友達の利用電車によってあっちへいったりこっちへいったりしていた。
 就職したら清水へ5年間いっていて、転勤で帰ってきて、朝横浜の駅から湘南電車に乗ろうとしたら、あまりに混んでいて、怖くて乗れなかった。