ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

始まり

近頃の風潮を見ていると、私が暮らしているこの国がどんな歴史を持っていて、それは何が理由で起きたことで、その事実が教えてくれていることは一体何なのか、と言うことを真剣に、しかも真摯に考えるという行為がおざなりにされているような気がして仕方がない。
とたえば、札付きの自民党の国会議員が、米軍のヘリコプターが何機不時着しようが、上空からなにを落とそうが、それによって誰か死人が出たわけでもあるまいし、ギャァぎゃあ騒ぐなとでも言わんばかりの野次を飛ばしたという事実をひとつとっても、そうだ。確かに人は誰も死んでいない。しかし、死んだ可能性がなかったわけじゃない。米軍のヘリコプターの操縦士が「お、今なら誰も死なずに済む」と確信をして小学校の校庭に窓枠を落としたとでもいうのかね?
こんなことでもそうだけれど、韓国政府が元慰安婦の人たちのための謝罪合意をもう一度考え直さざるを得ないという動きに対する日本国内の批判にも同じ事がいえる。国家間の合意を覆す前代未聞の愚かな行為だ!と糾弾する人たちの勢いは強い。しかしながら、この問題の根は一体どこにあるのかということから考え直す必要がある。
戦前の日本という国がどういうスタンスにあってどのようなことをしてきたのか、という点をないがしろにして、前政権が10億円で妥協した行為に固執することがフェアかアンフェアかと考えなくてはならない。うまいこと納得させたのに、そりゃないだろうとバレてしまったのではなかったか。
電車の中で痴漢をされた人が犯人から百万円やるからなかったことにしろ、今後この件を事件沙汰にするなよといわれ、それじゃといってお金を受け取ったけれど、いつまでもバックラッシュする恐怖に我慢ができなかったらどうする。百万円で決着をつけたことがフェアかアンフェアかといったらどうか。
若者達のそうした行為を親が凄腕の弁護士をつけて示談に持ち込むというケースは数え切れないほどある。それをフェアというか、アンフェアというか。
国家間の合意と一緒にするなというかもしれないが、根は全く一緒だ。
時は明治150年だという標語にも同じ匂いを嗅ぐ。あそこから日本の近代化が始まったというけれど、あそこから一部地域出身者の日本の占領が始まったのではないのか。天皇に名を借りた占領が続いているのではなかったのか。太平洋戦争が終わった時に連合占領軍が天皇制を残したことが占領の継続を支えてきたのではないのか。明治150年は日本の被占領の歴史ではないのか。