ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

nsw20722006-08-23

週末のイベントの練習をするところがないから、個人練習は音源をならして口をぱくぱく心の中で唄うという方法しかない。昨日は仕事の帰りにiPodで聴きながら歩こうとしたら、iPodが動かない。家に帰ってパソコンにつなぐとちゃんと機能する。一体全体何が起きているんだろうか。
今日はしらみつぶしの会議をしなくちゃ。未だに全貌が掴めない。

食べ物ブログ

 三陸旅行に行った時に帰りの仙台の駅で、よし田製粉所の系列そば屋があってそこの蕎麦がとても美味しかったことを想い出して、そうだ、あのおそば屋さんは銀座に店があるんだと言っていたなぁと、ググって見ると(グーグルはこうした使い方はやめてくれっていっているらしいけれど、そりゃ何でなんだろう?)相当に古いお店なんだそうだ。しかもコロッケ蕎麦の元祖だという。とはいっても街の立ち食い蕎麦のコロッケとはちょっと趣が違っているらしい。こりゃ一度食べに行きたいものだ。と思いながら関連を見ていると、食い物ブログを書いている人というのは本当にたぁくさんおられる様で、あとからあとから枚挙にいとまがない。しかも、そのお一人お一人が巧い写真や、巧いイラストをあしらってこまめに書いておられる。その上、お取り上げになる料理がどれもこれもみな、高級そのものであるのだなぁ。どうしてこんなことになるのかと思うと、人間誰しも、余裕さえあれば毎日三回は食べたくなる。食べても怒られない。それ以上食事のようなことをすると、そりゃちょっと顰蹙を買う。しかし、三回までは「いや、しっかり食べられて健康です!」と威張ることだってできる。人間一日に三回もチャンスが与えられることなんて他にはないではないか。しかし・・・・皆さんマメである。

疲れ・・・。

 なんと7時間の打ち合わせ。今までの付けが一気にやってきた。そりゃそうだ。これまで月に一回打ち合わせをやればいい方。それもこのままのパターンでやりましょうといっていたはずのフォーマットも、事ここに及んでこっちの方が見やすい、わかりやすいという意見が平気で出てきちゃうのには参る。だったらあぁた、もっと会議にマメに出てよぉ〜!帰宅は零時を過ぎる。山手線が人身事故で止まる寸前に到着。あと一歩遅かったらどうやって帰ってきたことだろう。

Tower Record 11条の適用を申請!

 全米の80以上の店舗を売りに出すという。日本の法人は経営主体が違っているので関係ないとはいうものの、そろそろ店舗販売は限界だろうか。それだけネット配信が進んだということか。Tower Recordと言えば、生まれて初めてはいったのは1970年の8月。San Franciscoの大きな店だった。本当に驚いた。何がびっくりしたといって、ジャンル別に古いものから新しいものまでなんでもあって、古くなると値段が違っているということだった。何しろ当時の日本では一律1800円(だったかな?)なわけだから、様々な値段のレコードを売っていることがまず驚きだった。当時知り始めたばかりのbluesをデルタものからシカゴものまでなにもかもが見つかるので、目移りがして困ったものだ。あの時に入手したBlue Bird Bluesレーベルも多分箱に入ったまま残っているはずである。来月じっくりあの箱を開けてためつすがめつしてみよう。
 これで一時代がまたその終焉を迎えたようだ。

「戦後和解」

 先日本屋を三軒探して歩いた中公新書「戦後和解」小菅信子著はこれまで私が全く知らなかったことだらけである。尤も本を読むのが遅い私は知らないことがいくらでも次から次に出てきてしまうので、本当のことをいうと常に圧倒されてしまうのだけれども、この本を読むと原典に当たってみる必要があるという気にどんどんなってくるので、これからが大変だと思ってしまう。英国、オランダ、カナダ、オーストラリア、あるいはアメリカの将兵で日本の捕虜になった経験を持つ人たちが如何に表には出さないまでも反日感情を持ち続けてきたかについて私たちは一度は真剣に考えてみる必要がある。豪州にいた時に通りかかった老人に呼び止められて何年生まれか聞かれたことがある。戦後の生まれだというと握手をして別れていった。それよりも隣に住んでいたアーサーはパプアニューギニーにいっていたというのだから、もちろん日本軍と対峙していたわけである。私が借りたその家は大家がシンガポール系のチャイニーズだったのだけれども、日本人が住むと分かった時に、彼はどんな心境だったのだろうかと今更ながらに考えてしまう。まだ家族がやってくる前に、そのアーサーと奥さんのイーデスに呼ばれて遊びに行った時、その家のリビングにはアーサーが従軍していた時のオーストラリア軍独特のあの制帽を被った写真が飾られていた。とても聞けなかったけれど、彼は戦争中どの様な状況にいたのだろうか。前にもこの話を書いたのだけれども、その時からは「Now, we are friends」といって手を差し出してくれた。尤もそこであからさまに敵対するほど、無遠慮ではなかったということだが、その年はあたかも終戦から50周年だったのである。
 「戦後和解」によると1971年の秋に昭和天皇が英国を訪問した時、英国のジャーナリズムは徹底的に激しい論調だったのだそうだ。