ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

ぐるっと回ってみる

 京橋に用事ができて昼頃出掛ける。ブックセンターに久しぶりに入ってみると棚がとても大きくがらっと変わっていて面食らう。雑誌はとりあえず「at plus」の第2号。特集「21世紀の市民社会」で見田宗介大澤真幸と語っている。田中秀臣のreviewが興味深い。
 よせばいいのに、ちょっとかぶれかかっているので、講談社現代新書の「ハプスブルグ家」江村洋に手を出す。やっぱり「The ハプスブルグ」をやっているから表に持ち出してきているんだろう。まんまとはまる。
 保阪正康京極夏彦と対談をしたことがあるという話から角川文庫の「対談集 妖怪大談義」に手を出す。保阪が京極の本を随分読んでいることを知る。
 洋泉社MC新書の田口建三の「批判的主体の形成(増補改訂版)」を手に取る。田川が1970年に書いたものも改訂であるというが、あらかた筆を入れたもののあるのだそうだ。田川は東大・宗教学のドクター。1965年から国際基督教大学の助手を務めるも1970年に「不当解雇された」(p.311)そうである。

atプラス 02

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ハプスブルク家 (講談社現代新書)

ハプスブルク家 (講談社現代新書)

批判的主体の形成[増補改訂版] (洋泉社MC新書)

批判的主体の形成[増補改訂版] (洋泉社MC新書)


 京橋から有楽町の無印良品の眼鏡売り場に。ここで買った近眼鏡の右の弦のねじが締まらない。やっぱりここで買った老眼鏡のねじが落ちて弦が外れた。二つの修理をお願いして、その間にお店を見て歩く。隣のBic Cameraにいってデジカメを冷やかす。帰ってくるともうきちんとできていて、しかも無料だというのにはびっくりしてしまった。思わず嬉しくて取り乱す。店員さんの青年の対応がとても丁寧。
 彼の客あしらいを銀座松屋7FのBOSEのショー・ルームのお兄さんも教わってくれればいいのに。ノイズ・キャンセリング・ヘッドフォーンというものを初めて試した。デモで流される動画はDian Krallのパリのライブの演奏で嬉しい。そのデモと同時に飛行機の騒音を流している。それがこのヘッドフォンを耳に当てると、なんとぴったりと止まるのだ。ぴったり止まるのだけれど、なんだか無音室にいるような息苦しさではなくて耳苦しさを感じるのは私だけなんだろうか。
 タイプが二つあって新しい方が耳をホールドする部分が大きいから体積はケースに入れても大きい。この二つの比較を写真にしたいといったら、「どうぞカタログをお持ちください」といわれてしまった。今更このデザインを盗用する奴もいないだろうと思うけれど、なんでも偽物大得意のデザイナーにかかってはすぐに再生されてしまうんだろう。飛行機の中のエンターテインメントをお仕着せのどうしようもないヘッドセットで聴いても少しも良く聞こえない。これを使うと綺麗に聞こえるものだろうか。ジャックの形状が一体何種類あるのだろうか。
 アップル・ショップに行ってiPodのバッテリー交換について話を聞こうとしたら実物を持ってジーニアスバーのアポイントメントを取って、といわれる。京橋まで歩いて地下鉄で帰る。

投票率

 日本人は議会制民主主義をこんなにないがしろにしているんだから、どんなに税金を無駄にされてしまっても文句は言えないな。

やっぱりね

 昨夜、21時半頃になって、やや、まずいぞ、眠くなって来ちゃったじゃないか、という状況に陥ってしまい、昔だったらやること探してどうにか起きていて、最後の最後になって寝れば明日の朝の時間をキープできると頑張るのだけれど、今や殆ど頑張るという行為に執着がない。すぐに眠い状態を甘んじて受けて、寝床に入ってしまった。すると非常に気持ちよく眠りに落ちていった。しかし・・・案の定というのか、やっぱりなというのか、なんとたったの2時間で目がさめてしまったのだった。がっかりである。目がさめた時には朝の5時頃で爽快に目がさめていればいいなぁと思ったけれど、そうは問屋は降ろさない。結局、NHKのテレビをつけて、三宅裕司の「子どもの頃」とかいう番組を見てしまう。
 彼は私よりたった4歳下である。ルックスのこの違いはどうしたことだろう。たった4年なのに。彼はまだまだ50歳前後に見える。なんであんなに髪の毛があるんだろうか。
 彼は西神田小学校 - 一橋中学 - 明大明高 - 明大だからあの界隈から一歩も出ていないことになる。区立のくせに一橋中は大変にうるさい進学中学で、私の高校にも一橋中の出身者がたくさんいたが、わが高校にやってきたのはみんな都立の第一志願校をおっこってやってきた奴らばっかりだったから、入学当初やる気ないことおびただしい。私たちも一橋中は凄いんだぜぇと聴いているからどう凄いんだと聞いてみると、宿題を忘れてきたら一日中首から「私は宿題を忘れました」と書かれた看板をぶら下げていなくてはならなかったなんてことを聴いた。本当かどうか知らないけれど、今だったら人権問題だといって大騒ぎになるだろう。文化大革命じゃないんだから。それでも、当時はそれくらいなんということもなかった。いや、私がこう書いているくらいだから「こんなのはやばいぞ」という認識は生徒の中にはあったのは確かだろう。しかし、だれも保護者が文句をいうことはなかったと思う。
 うちの中学校はそれほどのことはなかったけれど、毎月毎月学力テストがあって、毎月順位が発表されて、「お前はここだ」と突きつけられるというやり方だった。それでも落ち込んじゃう、いわゆるへこんじゃっていた奴が思い浮かばないのはなんでだろうか。ひとクラス55名のなかで試験の結果を競っていたのは多分5-6人しかいなかったような気がするのだ。あとは自分の居場所にそれなりに楽しんでいたんじゃないだろうか。私は越境して電車で通っていながら三年生からは塾に通い、新聞委員会をやり、水泳部から卓球部に浮気をし、毎週土曜日の午後にはみんなでフォークダンスを踊っていたんだから充分に楽しんでいたといって良いだろう。
 しかし、一橋中から来た彼は真面目に勉学に励む男だったから、多分今は立派なおじいさんになっていることだろう。彼と良く一緒にいたのは愛宕中から来た田村町の和菓子屋のせがれだった。彼は三年間ずっと剣道部だったから私なんかと全く違っていて、いつも寡黙でにこにこしているんだけれど、それでも背筋はピンとしていて、決して肩を丸めて両手をズボンのポケットに入れたりなんてことをしたことがない。いつでも必ず背筋がピンとしていた。バスで遠足に行った時に彼がピンと背を伸ばしたまま居眠りをしているのを見て私なんかは魔法を見ているような気になったもんだ。彼なんかはきっと今でも背筋を伸ばした爺さんになっていることだろう。
 なんだか逢いたくなってきた。やばいなぁ、この先が長くないのかもしれない。私は多分「お前さぁ」と話しかけるだろう。すると彼は「君も元気だねぇ」というだろう。それくらい真面目さが違っていたな。
 あ、そうだ、三宅の話である。彼を見ていると何をやるにも凝り性だったんだろうなぁと思う。ちょうど時代がぴったりだったんだなぁ。時代が人を作るという典型例のような気がする。