ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

銀座”天金”

 今はもうない。正確な場所も思い出せない。多分、靴のKomatsuの裏くらいだったんじゃないかと思う。とても懐かしい造りの店だったんじゃないだろうかという想い出だ。そう、浅草で云えば天ぷらの大黒屋にお好み焼きの染太郎の建物を足したような。あ、そうそう、そういえば染め太郎の人、うちと同じマンションにいるみたいだ。
 天金の名物だったのか、それとも当時(1960年代後半)流行っていたのか、「天茶」というものがあった。ご飯の上に海老、かき揚げの天ぷらに三つ葉が添えて載っていて、多分だしが掛けてある。運ばれてきてふたを取るとそのふたに山葵が付いていて、それをといて頂く。これがうまかった。
あの店は一体いつなくなったんだろうか。


さて、ここでググって見た。
http://www.jijibaba.com/sakuhin/ginza1.html
岡部伝蔵さんという方が書いている銀座物語(らしい)
この方、どうやら天金の子孫。池田金太郎さんという天金創業者がおじいさんだという。

銀座「天金」の買い付けが終わらないと、海老のセリが始まらないと言われていた。
 曾祖母が三越の横の路地で屋台の天麩羅を揚げていたのが、一流の料亭にしたのですから、大変な努力だったと思います。
一日に二万匹の海老の殻をむいたと聞きました。
 林 芙美子が 「放浪記」で大学での初任給が十円の時、銀座天金で二円三十銭取られたと書いてあった。初めて原稿料が入ったので気が大きくなっていたと。

朝日文庫「銀座十二章」を書いた、慶応の教授だった池田弥三郎の実家だという。するとこの伝蔵さんとの関係は?
岡本綺堂なんぞも出かけていたという。
http://www.hageten.com/tenpura/K0002.html
銀座ハゲ天のHPには

明治の3大天プラ屋は橋善(新橋)天金(銀座)中清(浅草)と言われます

と書いてある。私は地元の中清だけ入ったことがない。
おなじくハゲ天のサイトでは天金の創業が1864年としてある。
http://www.littera.waseda.ac.jp/sobun/i/ii012/ii012p01.htm
「早稲田と文学」のHPには:

池田大伍(いけだ・だいご)
1885〜1942。劇作家。東京銀座の天ぷら屋「天金」の次男に生まれる。明治40年早大英文科卒。坪内逍遥島村抱月のもとで後期の文芸協会に参加した後、東儀鉄笛、土肥春曙らと「無名会」を組織。銀座の商家育ちらしい洒脱なせりふに定評があった。

大正三年生まれの池田弥三郎の・・・?
この疑問は
埼玉大学の八木惠子さんのHPで氷解。この方、相当歌舞伎に肩入れされているようで、勉強になります。
http://www.kyy.saitama-u.ac.jp/~yagi/kabuki/k_9804.html

作者の池田大伍は、二代目市川左団次の七草会を支えた一人で銀座のてんぷら屋さん「天金」の次男、池田弥三郎さんの伯父さんです。

これで明確になったな。


天金にはこんなものも出していたらしい。
http://web1.tinet-i.ne.jp/user/kgzmlpal/kannwa99.4.2.htm
仙台の齋藤武さんのHP:
【4月11日(日)「柳の花」】の項目に池田弥三郎が「私の食物誌」に書いているのだそうだが、「天金」で出していたおから料理を「柳の花」と呼んでいたそうである。