ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

若い頃こういうものがあこがれだった

ここの靴は決して安くはなくて、当時で2万円に近い金額だったのではないかと思う。総革で、私がもっぱら好きだったのはプレインなつま先のもので、靴底まで革だった。だから、足裏のアーチベントが不必要なまでに堅くないのにもかかわらずしっかりしていて、履き心地は抜群であった。しかし、当時の私のように外を歩くことの多い職種のものが履くようなものではなかったということである。革底が減りやすく、極端な状況でははがれてしまうこともあり得る。当時の丁寧なきちんと縫ってある靴であれば、そこだけ張り替えることもできるわけで、何足かそうしてもらった記憶もある。この店はそうしたお客を大事にしてくれるらしくて、そんなに安くはなかったが、結構面倒を見ていただいた。だんだん、子どもに手がかかるようになってとてもそんなところで買うわけにはいかなくなり、かなり近いものを御徒町の駅にほど近いところにある靴屋さんである日偶然見つけ、その後はそこから求めていた。仕事を辞めてからはすっかりそのフォルムや風格を楽しむどころか、ただただ履き心地と軽さを求めてあっちに行ったり、こっちに行ったりしている。

  • ワイシャツは

 横浜の元町に若松屋というワイシャツの店があったと記憶している。そのきっかけはある人からこの店のワイシャツのお仕立て券付き生地をいただいたのが最初である。昔はこんなプレゼントがよくあったものである。中にはお仕立て券付きのスーツの生地を配ったことを指摘されて就任したばかりの区長の席を棒に振らざるを得なかったやつもいる。当時この店で何枚かのシャツをつくった記憶がある。その頃トラッドといえば石津謙介が若者を対象に売り出したVANジャケットのボタンダウンシャツはその襟のフォルムがとてもきれいで好きだったけれど、そんな襟のシャツを着る人間はそんなに普通ではなかった。デパートのシャツ売り場でもそうだったけれどこの店でも襟の形はいろいろあって、それが壁に飾ってあり、あれが良いと指させばそれができた。小ぶりの襟でまるで大正年間の官吏でも着ていそうな丸い襟のシャツを好んでつくったことがあった。今ではほとんどそんなシャツを着ている人は見ない。私ももうネクタイをするのはほとんど黒いネクタイくらいであるので、雇われの身の頃にたくさん持っていたシャツもそのまましまわれている。これからはネクタイやジャケットを着ない時にも気軽に着るようにしようと思う。シャツも靴と同じように子どもに手がかかるようになってからは、友人に教えてもらってあるトラッドファッションメーカーの社員割引バーゲンに入れてもらい、年に2回定番ものを買うことになっていた。こうして決めたものが続いている時は心配が要らないのだった。
 総じて私は臆病者なので、全く入ったことのないお店に入り込んで、お店の人のご機嫌を伺うところから始めなくてはならないところがいやだ。だから、ほとんど知らないお店で買うことがない。どうしても時間と場所が限定されてしまう、あるいは家人が一緒だとでもいうことがないとだめだ。だから、通りかかりで気に入って買ってしまうと云うことが、ないとは云わないが少ない。

  • 背広

 生まれて初めて買った背広は多分そのトラッドのVANジャケットだと思う。冬物で、明るいグレーの杉綾だったと思う。生まれて初めてイージーオーダーした背広は1971年の3月に、ご近所の同級生に紹介されて行った秋葉原のメーカーだった。就職に際してつくったもので、紺色とグレーの二着だった。多分夏物は初月給をもらってから吊しのスーツを買ったのだと思う。これはグリーン系のやっぱり杉綾だった。3年後にはチャックが壊れて捨てることになった。その後はやはり子どもに手がかかるようになってからはシャツと同じようにトラッドメーカーの社員バーゲンにて調達したものである。こうしてみると私はこんなものに本当凝ったことがないのだ。だから、新宿の結構知られたあのデパートのオーダーメイドなんてものを着ていた先輩に目を見張ったものだ。何しろ私が着ていたスーツの3倍ほどの値段がしていたはずだからだ。一時期ブレザーで会社に行っても何も言われない職場にいたことがあったが、その次に行った職場でブレザーにだめを出されてあらがったこともある。実はブレザーは好きで、紺、キャメル、モスグリーン、茶のグレンチェックなんてあったなぁ。元町のポピーで買える日がいつになったら来るかと思っていたが、とうとうこなかった。