ほぼ足りてまだ欲 その先

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13回忌

 今日は亡き父の13回忌の法要を行った。父は岡山県(当時は都窪郡妹尾町箕島)出身。農家の次男(三男?)で、当時では珍しく船舶工学を学んで、「大学は出たけれど」といわれた大不況の時期に関東にあったある企業の造船所に入社。数年後にその会社が近いところにあった会社に合併されたが、本人は死ぬまで自分は最初に入ったあの会社の人間だと言い続けていた。この辺が頑固なまでのこだわり人間で、合併された後も、その事業所にこだわり、そこの後輩の人たちと付き会い続けた。84歳で他界したが、自分の気持ちの中には想い出深い仕事も持っていたので、充分充実した人生なんだろうと思っていた。しかし、晩年は妙に近くの神社に参拝に出かけはじめ、家に神棚を構え、著名な神社に寄進をしたりしていた。学生時代から戦後にかけても反骨精神をどこかに見せていた人ながら、なぜ急に神道に傾倒していったのかは謎である。
 この父が学生時代の仲間たちと金を出し合いアジア太平洋戦争時代に自分がどうしていたかを綴った「造船屋大陸を征く」と題する文集を創っている。印刷も、製本もなんとも粗末なものだけれど、少なくともクラス・メイトに明かして良い程度の当時の自分を明らかにしている。全部が全部すべてをあからさまにしているとは思えないけれど、なかなか自分らしさが出ていて面白い。
 父と息子はある意味でライバルらしいから、私に対しては本当に心の底を明かすことはなかなかなかった。戦争中のことについては、これくらいでしか窺い知ることのできる材料がない。最後まで本音を私には明かさない父だったけれど、私が駆けつける直前の病室では苦しさの中から周りの人たちに「ありがとう」といったらしい。あのわがままを振り回していたと思える人だったのに、それはある意味、自分の照れの表現だったようで、この「ありがとう」には、後で聞いて驚かされた。
 晩年は実家の甥、つまり私の従兄弟に道案内をさせては西日本各地を旅していたようである。実家にあった大量のアルバムがその記録となって残されている。壮年期には20貫を超える当時にしては大きな人だったが、学生時代のノートや、死ぬまでまめに記録し続けていた日記帳を見ると実に細かい字を綿々と書き連ねていた。あまりにも小さくて繋がっているためにわたしにはいっかな読み進まないくらいに難しい日記帳となっている。最後の三年分を自宅から持ち帰っているが、読み下せない。
 父は自分が勤めていた会社の病院で黄疸症状を呈した状態でカテーテル施術中にその失敗から敗血症を起こして急死した。担当した若手医師たちは説明に来た時に表情なく、ほとんど口を開かず、私たち家族がほとんど理解できる説明もできなかったけれど、死んでしまったものはどうにもできるわけもなく、母は解剖も拒否したものの荒立てることもせずそのまま自宅に引き取ってきた。しかし、母はその後自分がその病院に全幅の信頼を置いていたことを考えると彼女にとっては絶対的なものとなっていたようである。その母も同じ病院で主治医が休暇中に息を引き取った。
 これで今年の法事は母の新盆を残す。来年はその母の一周忌、その翌年は三回忌と続くことになる。こうした法事で兄弟の三家族が集まって会食し、昔話を繰り返すことが供養でもあるが、自分たちの親族としての確認作業でもある。そして、できることなら次の世代も参加してもらって世代を超えた家族の伝承をしていけるように考えられた行事である。全員が必ずしも仏教徒ではなくても、こうして行事を続けることに意味がある。