ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

戦争

 私にとって戦争とは現場を全く知らないし、現実感が全くない。アジア太平洋戦争にしてもその前の日本の中国大陸における侵略戦争も、ベトナム戦争にしても、湾岸戦争にしても、今度のイラク侵攻も全く現場を見たことがないから分からない。しかし、幾多の書物、あるいは映像から想像することはできる。広い範囲を映し出している映像であればそうでもないが、非常に限定されている範囲を映す映像は気をつける必要がある。映像のイメージを変えることは容易にできるからだ。文字となったものは読み手の側に経験や想像力があるかないかで大きく違う。
 昔からの経験からいえば、とても小さなグループ、それも自発的に構成されたものではなくて、公的なもの、あるいは準公的に構築されたグループにはそのグループ特有の価値観、倫理観が構成される。そのベクトルが上に向いている場合は自分は本来そんな方向性を持っていなくても、その方向に向かおうとする。そして同じように、そのベクトルが捨てばちな力を借りてやや投げやりな方向に向かおうとすると、すっかりその方向性に向かっていないと前者に比べて圧倒的に排除の対象になりやすい。だから、どんなに自分のバックグラウンドが異なる価値観を持っていたとしても、致し方なくその方向に行く傾向が大きい。戦争の時、グループのベクトルはそっちに行きやすいのだろうと想像する。これは自分のほんの少しの経験、体験から導き出しているだけだ。
 ところが現場にいなかった私と同じような立場にいる人が、現場にいた人が著したものをやっきになって否定する、という行為が最近特に目につく。たかだかが2-3行で著されている行為を机上であぁでもない、こうでもないとひっくり返し、その挙げ句「だからこの人が言っていることは嘘である」としてひとくくりにして、戦争で行われたことを否定していく。確かに私の先祖がそんなことをしたのだとしたら、それを目の前に突きつけられるのはいやだ。しかし、実際に起こったことを、実際に行われてしまったことのすべてを否定するのはやはり間違っているだろう。
 しかし、こんなことを云っても、どんどん目の前にそうした事実をとらえていた人たちも、一人、また一人と口を閉ざしたままその事実を抱えて西へ旅立つ。あとは都合の良いことだけが生き残る。