ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

ビートルズ話、続き

 昨日のNHKの特番についてはmixiビートルズ・コミュニティーで賛否両論。所詮NHKがやる番組はいつだって、あぁしたいい加減さなんだから今頃そんなことを云っても仕方がない、まだ良い方だ、それともビートルズ愛好者じゃなきゃ出ちゃだめだとでもいうのか、という声もある。もちろん私のように、なんであんなくだらない番組しか作れないんだという声もある。なにしろゲストで出てきたのがかまやつと泉谷、そして私もうちの連れ合いもしらない「キンモクセイ」っていうバンド(何しろ最近の人たちのことは覚える暇もないんだなぁ、これが。「ゆずとは違うの?」といっちゃったりしているんだからね、何となくニュアンス似てない?)。挙げ句の果てには「どっちかっていうとストーンズ派」だなんてかまやつも泉谷も言い放っちゃう。まぁ、あの二人をゲストに呼んだ時点でそんな危険性は十分あることを覚悟しなくちゃならないわけだ。勿論冗談だけれども、こういう番組を作ろうとする時でもNHKはどっちかに偏向しない番組を作ろう・・・なんちゅうくだらない意識が働いちゃうんじゃないだろうか。ビートルズを懐かしむ番組を作るんだからビートルズにぞっこんな人を連れてきて語らせれば良いんじゃないのか。あるいは40周年を云うのであれば、日本テレビから買ってでも良いから武道館公演の画面を流さなきゃ意味がないのではないのか。
 そういう点ではまさに番組の対象ターゲットを当時のビートルズ世代に焦点を絞って、これでもか、これでもかと懐かしい話題に徹底したニッポン放送篠田三郎番組の方が意思がはっきりしていたというべきだろう。東急キャピタルホテルのプレジデンシャル・スィートから生中継だなんていたずらに際物的番組にしてしまうNHKの姿勢よりは気骨を感じる。
 ジョンがピンクのキャデラックを乗り付けて六本木の骨董屋に行って人だかりがしちゃったという話はかつてどこかで聞いたことがあったけれど(ミュージック・ライフででも読んだのかも知れない)、それで翌日ホテルに骨董品(番組中では古美術品といっていただろうか)を持って行ったという話をしていた。この話で想い出したのは、昔、世界一周のクルーズに限らず、外国船が日本の港、横浜港なんかに寄港すると船に日本のおみやげ屋が様々な外国人が好みそうな日本土産(これがどうしても矛盾を感じるのだけれど)を持ち込んで売っていた様子である。
 私は当時、無理矢理買ったGracyのドラムセットの月賦を払わなくてはならなかったので、横浜港で船廻りのアルバイトをやったことがある。そんな時、狭い船の中のメス・ルームなんかで日本人のおみやげ屋さんがおみやげの入った段ボール箱を拡げているのを見たことがあった。そんなまだまだ占領期の雰囲気をそうした話から感じたりする。そういえばビートルズが日本に来た40年前はまだまだ都電が走っていたはずだ。横浜の市電は少なくとも走っていた。どの団体から頼まれたのか忘れてしまったけれど、大学に入ってから大学の同期生の女学生から頼まれて、ドイツから来た男性を横浜に案内したことがあって、確か横浜駅から市電に乗せた覚えがあるのだ。しかし、当時すでに根岸線が洋光台まで開通していたはずで、元町、海の見える公園、中華街を案内するのに、どうして石川町まで根岸線で行かなかったのだろうか。様々な乗り物に乗せようというコンセプトだったのだろうか。もう覚えていない。
 今回の来日40周年騒動で、浅井慎平が当時のヒルトン・ホテル(今のキャピタル・ホテル)に泊まっていて写真を撮っていたという話は「話の特集」が出した特集号(なんであの雑誌がそうした特集号をだしたのかという話は「話の特集の仲間たち」だったか「話の特集2005」だったかに書いてあったと思う)で知っていた。それから多分中部日本放送だったか中日新聞だったかが刊行した来日特集号なんてものもあったと記憶している。そして、そうした雑誌もどこかにとってあるはずである。
 しかし、そうした特集ものも、こんな時にタイムリーに右から左にひょいととりだしてみせられるようじゃないと、あんまり意味がないなぁ。それにしてもこんな簡単に自分でものを書ける場ができるとはその当時思ってもいなかった。そんなわけで、自分の蔵書のリストを創ろう!と思いだしたのだけれども、そんなとんでもないことをやらない方がよいかなぁ。
 ひょいと書棚を見たらミュージック・ライフ編、渋谷陽一構成、シンコーミュージック1987年発行の「ビートルズの軌跡」という文庫サイズの本を発見。1965年8月27日にビートルズビバリーヒルズのプレスリー邸でプレスリーと会っていると書いてある。
 私が初めてビートルズのレコードを聴いたのは、今某大学で心理学系の教授をしている男と今は既になき私と同じ歳のその男の兄貴との兄弟の家に行って聴いたI Wanna Hold Your Handだったはずである。イントロが鳴っただけで血湧き肉躍ったあの曲が日本では多分彼らの最初の曲だったような気がする。彼らと私はその前あたりからワァワァ云っていてお互いに家にステレオをねだり倒して置き、それぞれ親から「うるさいっ!」と怒鳴られながら聴いていた。そりゃうるさかっただろうと思う。今、子どもたちがかけるものを聴いていると我慢できなかったりする。その点ではそれぞれがそれぞれの殻に籠もってしまうと云われるけれど、お互いの邪魔にならない楽しみ方ができるようになったといっても良いかも知れない。それはソニーの盛田というおじさんのおかげなのかも知れないなぁ。
 当時のビートルズのレコードは東芝EMIレーベルだったから赤い透き通った塩ビレコードだった。でも輸入盤はいろいろなジャケットがあったから後年になって見慣れないジャケットが出回る。うちでは2学年上の姉が「サージェン・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を英国から買ってきた。そうそう、その時の彼女のお気に入りはトム・ジョーンズの「デライア」だった。
 私たちはビートルズが日本にやってくる2年ほど前からビートルズについてミーハーな関わり合い方をしていたのだけれど、同じクラスの中にはもちろんエルビスについて語らせるとうるさい絶対音感を持った男子生徒とクリフ・リチャードのあの鼻声にぞっこんになっていた運動神経抜群の女子生徒がいたりしたものだった。そうかと思うとかたやピアレスのバンジョーを買ってキングストン・トリオをやっていた生徒もいたのだから、古い体質の学校だったとはいえ、確実に世の中の波の中に取り込まれてしまっていたわけだ。
 私が物欲に駆られるようになった原点というのは多分あの時期だったのだろう。それまでの私たちはそれほど何が欲しいと云うほどのものではなかった気がする。大したことがないといったらよいのか。ミュージック・ライフで見たフェンダーのギターや、グレッチ、ラディックのドラムスなんてものが現実に銀座の日本楽器や十字屋のショー・ウィンドウに飾ってあるのを見ては「いつかこの楽器を手にしてみたいものだ」と思ったのだ。それまでそんな高価なものを触ってみたいとか、いつか自分のものにしたいと思ったりした記憶がない。せいぜいグローブだったり、バットだったり。そうして考えるとあの頃から私たちの年齢的にもそうかも知れないし、戦後の日本の経済もそういう状況にさしかかってきていたのかも知れない。あの辺から私たちは物量による価値観というものに振り回されてきたのかも知れないのだ。