ほぼ足りてまだ欲 その先

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曲がり角

 立花隆が言うように私たちの国はとても大きな曲がり角をむかえようとしている。靖国の存在を推す強い力が説明不足のままこの国の中では肯定されていこうとしており、これを象徴として明治憲法をないがしろにした、戦後の外圧によって作られた昭和憲法をもう一度平成憲法で置き換えようとする力を強めていこうとすることになるのだろう。そして、もう既に確定とみなが見なしている次期総裁となるであろう安倍晋三は「闘う政治家」を宣言しているのだそうで、どこで何に対して「闘う」のか、私は文芸春秋社から刊行されているそんな本も読んでいないので知らない。
 ちなみに文藝春秋9月号の独占掲載「この国のために命を捨てる」はほぼ、そのほとんどが先の北朝鮮のしょぼいミサイル発射の際にどう対処したかに費やされていて、これは表題を変える必要がある。ほぼ終わりのあたりに、米国のアーリントン墓地には奴隷制を巡って南北戦争を闘った南軍の指導者も埋葬されているが、このアーリントン墓地を訪れる大統領や米国人がそうした思想を肯定しているわけではないのだ、という例を引いている。官房長官はさすがに首相を補佐するだけあって、8月15日の公僕リーダーのぶら下がり会見に負けずに劣らない立派な論理だと感心した次第。
立花隆の「メディア・ソシオポリテックスの中で8月15日に安田講堂で開かれた会で高橋哲哉が持ってきた戦中の靖国を撮ったフィルムを上映したのだそうだ。

陸軍も海軍も、部隊で次々におしかけてきては、そこで軍事パレードや出陣式を毎日のように行っていたのである。死者を悼む儀式など、なきに等しく、そこは戦意高揚のために、勇猛果敢なる兵士たちが、熱気でいっぱいのパフォーマンスを繰り広げる場所だったのである。

と書かれている。そういわれてみれば、私はもちろん戦後のこの日の映像をテレビで見ただけの話であって、実際に戦中はどのような状況にあったかなんてことを見たことも聞いたこともなかった。しかし、力を持つ側にしてみればそんな実態は今ここでつまびらかにする必要性なんて全くないわけだ。ただただ国のために闘った(餓死してしまった人たちが大変な数に上るのだけれども)人たちを静かに奉る場ということを強調し、それを邪魔することがこの国の(わずか100数十年に過ぎないけれども)文化を如何に壊しているのかということを売り物にしている側にとっては知られる必要がないからである。

8月15日の靖国参拝後の会見の一部始終をその日のうちにネット上で捜したけれど、どこにも掲載はされていなかった。実際の紙面上では掲載されていたのかも知れないけれど、ちょっと不満だったのだけれど、それを官邸がウェブサイトで全文公開するとは思わなかった。
「どんなことをやってもどうせイチャモンがつくんだから同じだ」とする論理は全くの話その辺のチンピラと同じ言い訳である。どうせ自分の行動を肯定するのだとしてももう少しインテリジェンスを感じさせる言い訳を考えたらどうなんだろうか。「ひとつくらい不満な点があってもそういうのを乗越えて未来志向で友好関係を進展させていくのが、日本としても他国にしても大事じゃないでしょうか」は何回も繰り返される彼の論理である。無神経さを売り物にすることによって「力強さ」「闘う政治家」を印象づける価値観というのははっきりいって、国民を小馬鹿にしているといっても良いだろう。この程度のことで私たちがコロッと騙されてしまうと信じている姿があまりにも浅薄な戦略と見える。私は今まではわざとそのためにこうした論理を繰り返しているのだと思ってきたのだけれど、どうやら彼、そして彼の一派は本気でそう思っているようだ。だとするとこの人たちは本当に危ないのかも知れない。クライン・なんとかさんとか、上坂・なんとかさんの様なおばさま方にはこの種のシンプルネスが心に響き渡るのかも知れない。