ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

「軽井沢物語」その後

 戦前の軽井沢に来る避暑客の自治組織として軽井沢避暑団なる集まりがあった。

軽井沢避暑団の最後の団長となったのは、米国人ウィリアム・ボーリスである。彼は1929年(昭和4年)と1940(昭和15)年に団長となった。ほぼ一年ごとに団長が改選されているが、二回選ばれたのはダニエル・ノーマン*1とボーリスだけである。
 このボーリスは、厳密にいえば牧師の資格を持っていない宣教師だった。それでも軽井沢に於ける在日宣教師会議の議長に選ばれている。伝道に熱心だったのが認められたのだろう。
 多くの宣教師が帰国する中で、彼は日本にとどまることを選んだ。そのためにどうすればよいか・・・日本に帰化し、日本人になることである。ここで昭和16年1月、ボーリスは滋賀県近江八幡八幡神社で日本帰化の宣誓式をし、妻の姓をとって一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と名乗った(米から来て留まる、の意だという)。彼の近江セールズが販売するメンソレータムは日本軍の兵士の必携品のひとつになっていた。軍需物資を生産する日本人・・・これで堂々と伝道できる立場となったはずであった。p.327(昭和16年8月26日に会員総会を開き、軽井沢避暑団と軽井沢集会堂が合体し、財団法人軽井沢会となる。p.326)

 このウィリアム・メレル・ヴォーリズメンソレータムでよく知られた近江兄弟社創始者の一人である。

ヴォーリズは驚くほどの数の建築を後に残しているが、実は正規の建築教育も受けていないし、正規の宣教者でもなかった。早くから建築家を志望していたが、信仰心の篤さから海外伝道の念絶ちがたくその道へ踏み切ったようである。近江兄弟社グループには株式会社近江兄弟社、学校法人近江兄弟社学園、株式会社一粒社ヴォーリズ建築事務所、近江オドエアサービス株式会社、財団法人近江兄弟社、財団法人近江兄弟社老人保険施設ヴォーリズ老健センターが今でもあり、多くの建物も残されている。
 ちなみに近江兄弟社は「1974年に倒産し、メンソレータムの販売権も返上した(その後メンソレータムの販売権はロート製薬が取得、さらにメンソレータム社本体もロート製薬に買収された)。近江兄弟社は、その後大鵬薬品工業の資本参加で再興をはかったが、そのときにはもうメンソレータムの商品名を使うことができなくなっていた。そのため、メンソレータムの製造設備を利用し、現存の「メンソレータム」とは多少は処方が異なるがほぼ類似した「メンターム」を製造販売した。この「メンターム」を、自社の主力ブランドとして育て、今に至っている。」(『ウィキペディアWikipedia)』)

*1:カナダメソジスト教会の宣教師。ノルマンさんと呼ばれて親しまれた。軽井沢で生まれた彼の息子のひとりがハーバート・ノーマンであり、戦後の日本において重要な役割を果たした。「スパイといわれた外交官(工藤美代子)ちくま文庫」参照