ほぼ足りてまだ欲 その先

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真面目、頑張る

 そうやって暮らすのは疲れるのだろうと想像は付く。自分がそうできなかったら、そうやれている奴を妬ましく思い、煙ったいと思う奴がいるのだろうというのは想像が付く。人を攻撃する人間に「やめろよ」と云える力というのは凄い。何が凄いのかといえば、相手の報復があるならそれを甘んじて受けてやろうという決意があるということであり、不正義を放置できない、すべきでないという気持ちがあるということだからだ。困っている人を支えてあげようという気持ちを表現できるということだからだ(私にはそれができないのだ)。
 人の手助けが必要となる人に手をさしのべるという行為には勇気が要る。そしてそうした手をさしのべる人を揶揄する輩が存在することも事実である。自分ができないことなんの迷いもなく邁進している人を見ると悔しいのか、それとも妬ましいのかしらないけれど、そうした人達を「偽善者」だという人がいることは事実だ。福祉系の学校ですらそういう感覚を持つ生徒がいたりもする(酸っぱい葡萄?)。
 「なんの勉強をしているの?」と聞かれて「福祉の分野です」と答えると「なんで?」と聞かれるんだという。こうした勉強をして、一般の企業の就職試験を受けると「そんな分野を勉強した人がなんでうちを受けるんだ」と当惑した表情を浮かべ、“そんな奴がうちで使えるわけはない“という雰囲気を漂わすという。文系でいえば経済学部や法学部、文学部、社会学部といった昔からある学部の卒業生が受験に来た時には誰も何も疑問に感じない。それなのに、なぜ福祉学部の出身者だとなぜそう聞かれるのだろうか。文学部で、例えば心理学やインド哲学を学んだ学生が面接にやってきたとしてもそんな雰囲気を漂わせることはさほど多くない。
 人の手助けを必要とする人達がこの世の中には無尽蔵に存在する。そんな人たちの役に立つことを何かやりたい、という気持ちは凄い。自分がやりたいことを勝手気ままにやるのは簡単だけれども、それをそっちにおいといて、そうした人たちの生活のために資する、という力は凄い。古来、そうした人たちは歴史上に何人も存在する。そうした人たちも周りのそんな目にさらされながらそこまでやってきたのだろうか。
 それでも死んでしまったら、自らその時間を止めてしまってはダメなんだ。頑張れる人ほど、最後まで頑張ってしまう。頑張らないでやろうよ。さぼりながらやろうよ。できる範囲でやろうよ。
 テレビに尾木直樹氏が出てきていっていた。「それでもそのいじめていたといわれる四人の生徒が親と共に亡くなった女生徒の家を訪れ、謝ったというのは画期的な出来事で、これまでに聞いたことがない」という一言がなにかを感じさせるような気がする。せめてなにかが変わって欲しい。そうでなくては世の中が暗すぎる。
 そこでだ。こんな私には一体何ができるというのだろう。