ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

どこが人生の岐路か

 私の人生の中でとても大きな要素を占める英語塾の先輩が塾を主催していた先生が生前に書かれたもののコピーを送って下さった。シビアな授業ではあったけれども、いつも目を細くしてみんなを見つめておられた先生の顔が浮かんでくる。私は二度ほどもう辞めて遊びたいなぁと思ったことがあって、二度目にはとうとう先生のお宅に行ったことがある。一人で行ったら絶対に何も言えなくて引き下がることになりそうだと読んでいたから(この辺が相当にずる賢い雰囲気がする)、母親を説得して同行して貰った。それでも結局、「よぉ〜く考えてご覧」というような言葉をいただいて引き下がり、その後は高校の教師に何を言われようが邁進した。なぜか知らないが体育の教師にまで「英語ばっかりやってんじゃないのか」と云われて反発した記憶すらある。数IIIも、物理も全部放り出していた。当時は高校で、ハワイ生まれのおばあちゃん先生がいて、その人が主宰する朝のディクテーションの補習にまで行ったんだから、今から考えてみると私にもそんな真面目な、パンクチュアルな時期があったんだと我ながら驚くのだ。しかし、この偏向した知識の取得の仕方に父親は相当に気に入らなかったようだ。自分では言語学的な方向に行きたいと思っていたようだが(もう、ほとんど記憶なんて残っていないのだ)、「そんなことばっかりやっていて食い扶持を稼げやしないぞ」と脅かされてすぐに白旗を揚げ、なんちゅうことのない私学の経済学部なんてところに入ってしまった。それはそれでそのおかげで今やたくさんの友人に恵まれる人生を歩むことになったのだから良いのだけれど、今の青年たちと比較するととっても要領のよい選択をしたものである。今思うのは、あの時にそんな権威主義的な力をふるっていた父を乗り越えて自分が思った道を辿っていたら一体、どんな場面に遭遇したのだろうかと考えるとみたいような見たくないような興味に駆られる。そのうちそんなものを見せてくれる商売ができないものか。
 この政治には革命を起こさなくてはならない、私たちがイニシアティブを取る時代が来たら、必ずや革命だ、なんてことを云いながらバブルの足音にあっという間に尻尾をたたみ込んで、浮かれて歩いてしまったのだからずるい人生であることよ。今の青年たちはこんなことでは私は動けないと立ち止まる。佇む。私はどうにかごまかし続けてここまで来てしまった。どっちが人間として本来的か、という点を考えると忸怩たるものがないとはいえないのだ。