ほぼ足りてまだ欲 その先

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ラスキン文庫

 1952年3月の朝日新聞縮刷版をぱらぱらやっていたらこんな記事を見つけた。勿論今では「準禁治産」も「禁治産」も使わない。今では「制限行為能力者」と表現したりする。

1952/03/25夕刊p.2 <準禁治産の宣告 御木本翁の長男に>
 真珠王御木本幸吉翁(93)の長男隆三氏(58)=東京都港区我善坊町50=は去る一月隆三氏のオイで幸吉翁の孫、御木本真珠会社取締役、生産部長、武藤武治氏から東京家庭裁判所に準禁治産宣告の申し立てを出されていたがこのほど「浪費者」として準禁治産の宣告を受けた。 
 氏は幸吉翁の五子の末子(他の四人は全部姉)で、真珠事業には関係せず英国の哲人ラスキンの研究に従事、ラスキン・ホール同テーハウスの経営にからみ十数年前から多大の借金をし、昭和十四年春東京区裁で強制和議認可の決定を受け以来幸吉翁がこれを返済し続けていた。ところが二十五年春からまたまた金額にして八百六十余万円を借金して浪費したとして今度の準禁治産の宣告となったもの。【注】=この宣告を受けると財産上の重要な行為をするにはあらかじめ定められた「保佐人」の同意を得なければならず、同意なくして行ったものは後から取り消させる。
御木本隆三氏談:私の方が悪いんだというより他はない。浪費といっても外人の接待などに使ったのでやむを得ないと思う。将来三浦半島あたりで小さな真珠の工場を造り、ラスキンの研究を続けたいというのが夢のような現在の理想だ。刺激をして親父と争いたくない。

 当時の新聞記事には「個人情報」の保護という思想が全くないことに驚く。御木本幸吉の長男、隆三について姉弟構成から住所までしっかり掲載されてしまっているではないか。それは当時の彼はよく知られている存在だったのだろうか。当時の860余万円となると今のどれくらいの金額だろう。10倍じゃ終わらないだろうか。
 で、このラスキンとはJohn Ruskinのことで、19世紀末の英国の評論家・美術評論家だとウィッキペディアに掲載されている。どうやら後に湖水地方に暮らし、トラスト運動を創設したというので、大体のスタンスがわかりそうな気がするが、恥ずかしながら私はこの人の業績に触れたことがない。
 銀座に御木本隆三が当初創設した「ラスキン文庫」を継承して現在では財団法人ラスキン文庫なるものが存在するそうで、ここの説明には「御木本隆三(1893-1971)のコレクションを基として1984年9月に開設された図書館で、関連資料(和書・洋書)約4900冊を一般に公開している」というのだから、御木本隆三氏の研究も結果的には陽の目を見ていることになる。所在地:東京都中央区築地2-15-15 東京メトロ日比谷線築地駅より徒歩2分 開館時間 午前11時−午後5時 休館日 日・月曜日・祝祭日
 ウィッキペディアの「御木本幸吉」の項目に長男、隆三について(1893年-1937年)と書かれているが、生年はともかく、1952年の新聞記事で自らコメントしているのだから、没年は明らかに誤りと思われる。こちらの「東京紀尾井町ロータリークラブ」のサイトでは没年を1973年と記しているのがまた異なる。
 上述したこちらの「財団法人ラスキン文庫について」では没年を1971年と記している。
 昨年の10月には荒俣宏が「─ ダ・ヴィンチ・コードからラスキンへ ─」と題して慶應義塾大学教授、(財)ラスキン文庫評議員の高宮利行と対談をしている。この時の話はこちらにつながる。高宮先生が雄松堂書店のサイトで連載されている「ほんの世界はへんな世界」というコラムである。
 次にはこちらの方のサイトでようやくなるほどと頷いた。ここまできて、なんか手にしてみようかという気持ちにちょっと傾いた。
 こちらにはなんとあの旧軽井沢にある「軽井沢会テニスコートクラブハウス」の説明書きに「(昭和5年)御木本隆三氏によってヴォーリズ建築で建てられ、避暑団(現、軽井沢会)に寄贈されたと伝えられている。戦後、ヴォーリズの指示のもと、ひとまわり大きな建物に改築。」と書かれている。
The Ruskin Foundationなるものも英国にはできている。英国の湖水地方といえば、日本ではビアトリクス・ポッター、そしてウィリアム・ワーズワースであるが、やっぱりなんだかロシア人のような名前のこのラスキンおじさんをちっとかじってみなくてはならないかもね。