ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

占領下

 アジア太平洋戦争が終わって広島の呉には1945年の10月に米軍第10軍団が進駐した。連合国の中ではそれぞれがどこに進駐するかについて紆余曲折があり、中国・四国を管轄とする進駐に良い色を示さなかったが、結局1946年2月に英国連邦軍が進駐して米軍に取って代わることになった。この辺の経緯は「英連邦軍の日本進駐と展開」千田武志著 お茶の水書房 1997に大変に詳しく記録されている。この結果英国連邦各国出身の駐留軍兵士と結婚した女性が1952年以降おおよそ866名にのぼると同書にも記されている。そのうち豪州に嫁いだ人たちは約650名とされており、呉市役所で登録したはずだからかなり正確だろうと云われている。
 私は2004年の春に呉に出かけるチャンスがあった時に市立図書館でそうした人々の関連記事を中国新聞で捜してみると、1989年3月末から同紙のニューヨーク特派員の川本一之記者が「戦争花嫁 in USA」という連載を掲載していた。この連載は4部構成、34回にわたって掲載されたものだが、実際には1988年10月からの半年間をかけて米国内を中国地方出身で、かつての米軍兵士と結婚して渡米した女性たちを取材したものであると最終回に書いている。

チエコ・フラボー

 この連載で最初に登場する女性はチエコ・フラボー(当時65歳)である。彼女は当時呉の旧海軍鎮守府におかれていた英連邦軍司令部で電話交換手として採用され、そこで豪州部隊に配属されていた米国ペンシルベニア州出身の米国兵と結婚する。結局この夫は妊娠した妻を残したまま帰国してしまう。彼女は生まれた子どもを抱えて横浜に出てやはり交換手となる。ここで朝鮮戦争で負傷し、横浜の野戦病院で治療中だったレイ・フラボーと知り合い、結婚。それから後も紆余曲折、山も谷もある。多くのこうして外国に結婚して海を渡った女性の人生には推し量れない山谷がある。ひとりひとりの人生が驚きの連続である。もうほとんどの人が80歳を超えているので、そうした貴重な人生記録がここでも徐々に失われていく。
 豪州部隊に配属されていた米軍兵士がいたのだとは知らなかった。きちんと資料を読み砕いていなかったのだろうか。もう一度目を通さないとならないのかなぁ。

Kinuko Laskey

 この中国新聞の連載の第2部の4回目に掲載されているのはヴァンクーヴァーに暮らしておられたKinuko Laskeyである。彼女はこの取材時点では60歳であったが、今になってネット上で調べてみると2004年11月に75歳で他界している。Kinuko Laskeyはヴァンクーヴァーでもとても知られた人のようで、Hiroshima Survivorとして多くの人たちにメッセージを残しておられるようだ。広島出身でこうして戦後各地の兵士と共に海を渡った人々の中には被爆者の方も何人もおられ、広島の体験を残された方もおられる。Kinuko Laskeyの体験談はこちらでも聴くことができる。彼女は日系人のための高齢者ホームを開いたと上記の中国新聞記事に書かれているが、それは「Sakura-so」のことだろうか。彼女を記念するウェブサイトが作られている。→ こちら