ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

35年前の宴会

 35年前の1972年12月にわが家は創設された。実際に法的登記が完了したのは翌月、つまり1973年1月だったから公式にいえばこの時が創設ということになるが、お披露目会も12月に実施されていたからこちらの方が意味がある。
 当時、私の周りには何組かがこの頃に自らの家を構築していたので、仲間の間ではこの種のお披露目が目白押しで、季節、つまり暑くもなく、寒くもない頃にこうした催しが集中してあった。私達の仲間では1968年頃からいろいろなバックグラウンドを持つ人たちが集まって年に2回のツアーを敢行したり、間借りしていた事務局を拠点に様々な集まりを企画していたから、そうしたお披露目の会もほぼ仲間内で担当を分担し、それまでの慣行を前提にしたものではなくて、それぞれのアイディアを出し合ったもので造り上げていた。まぁ、こういえば聞こえはよいが、有り体にいってしまえば人がどんなことをしていたかを省みることなく、自分たちが思いついたものを片っ端から試していったといって良いだろう。
 ひと頃こうしたお披露目では当然のようになっていたものでお色直しをして二人が蝋燭を片手に入場し、各テーブルの蝋燭に点火、お開き前にご両親に花束贈呈なぞというのがある。その当時、こうしたことはどこでも行われてはいなかった。だから私達が仲間のそうした会に際して会場側と打ち合わせをする時に、こんなことをしたいというと、必ずむこうは逡巡した。やったことがないから何が起こるか分からない、だからやりたくない、そんな意思がひしひしと感じられた。蝋燭についていえば、どんどん普及した頃にはもう蝋燭ではなくて、簡単にいえば柄の長いガスライターのようなものになっていた。当時はそんなものはないからまさに蝋燭そのものを柄に刺した、という雰囲気で、勿論キレイにラップはしたものの、傾ければ当然蝋が垂れる。近所の医者の奥さんの帯に蝋が垂れていたんだと後からおふくろに怒られもした。しかし、これがそんな行事の始まりの頃の話だ。
 両親に花束を贈って感謝の意を表すというのも、今やあまりにもくさくて、誰もやりたがらなくなったけれど、当時はとても新鮮だった。会場側と話してもなかなからちがあかないので、小道具からBGMから詩の朗読からすべてこちら側で仕込む。これを最初にやったカップルは私の先輩と連れあいの親友という組み合わせだったから、随分と気楽に勝手に進めていたといっても良いかもしれないから、随分親戚筋には顰蹙を買ったかもしれない。連れあいの親友が(今から考えるとうら若き女性が好みというのもなんだけれど)サトーハチローの詩が好きだったから「ミョウガや、生姜は嫌いだよ」なんていう彼の詩を読み、花束贈呈をした。
 それからというもの、様々な友人や後輩たちのこうしたお披露目の会を手がけたけれど、必ず会場との打ち合わせに同行し、会場の雰囲気を読もうとした。通り一遍でやりたがる会場というのはあるもので、そんな時は打ち合わせの時にはほとんど持ちかけずに当日になってどんどんこっちのやり方をやっていってしまうという強引なこともした。なにしろ私達が若い時にはこうした会場産業も結構売り手市場になっていた感がある。
 最近はほとんどこうした会に出るということがなくなった。親戚の中ではお披露目をしないというのもいるし、二人と両親兄弟だけでの会食で済む場合がほとんどだ。そして若い人たちは仲間内でレストラン・パーティーをする。これが良いのだろう。当時は人前でこれだけのお披露目をしちゃったんだからちょっとやそっとでは引くに引けない状況なんだとそれぞれ覚悟を決めたんじゃないかという気もするが(私自身ははっきり云ってそうだったなぁ)、今やそんなことは関係ないしね。
 しかし、よく考えてみると自分の時よりは友達のお披露目の会であんなこともやってみよう、こんなこともやってみようというのは、申し訳ないけれど、結構楽しかったのだった。当時の友人たちに感謝をしなくちゃ。