ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

朝日新聞社・月刊「論座」6月号

 どうもからだが遊びすぎて疲れているらしいので散歩に出るが、やっぱりお金のかからなさそうなところには人が随分出ていてなかなか歩きにくい。月刊誌がそろそろ出そろう頃かも知れないと思ってデパートの中に入っているKざわ書店に立ち寄ってみると、この「論座」が見あたらない。もう売り切れちゃったのか?そんなはずはない。その代わりに月刊現代はご丁寧にも5月号と6月号が両方とも並んでいる。それにしてもこの山を見るとこの書店ではこのジャンルの雑誌は全く売れていないのかも知れない。しょうがないからとろとろと人ごみの中を歩きながら向こうのショッピングモールの中に入っているRブロにいってみるとさすがにこちらには月刊「論座」6月号を発見。それにしても今年の表紙の色は毎号結構ショッキングカラーなので、あんまり好きになれないなぁ。ここには月刊現代も6月号しか置いてない(ってあたりまえか)。そうして考えると前述の書店の方が意外性があって面白いかも知れないじゃないか。
 30代中盤の学習院大非常勤講師たる新雅史が「大学の専門学校化と衰退する「知」」なる文章を書いている。「大学の経営者たちは、他の大学との競走に打ち勝つため、学生のニーズや産業界のニーズに寄り添い、新規学部を作り続ける。大学経営者は、世のニーズが変わったら簡単に学部をつぶすつもりなのだろうか」としているが、明らかにその通りで、「組易し」と学生が選択するであろう学部、学科をつくり、そして「これなら多分チョロいだろう」と思わせる様な授業科目をお届けしてみたりしちゃうのである。しばらく前からこうした傾向は私学だけでなく公立校でも顕著な様でそのすり寄る様は見ていて忸怩たる想いがあるのだけれども、それはその個々の大学の存続を財政面から見たら致し方ないどころか必然であって、その他のどんな手だてが大学という機関の存続を保証するのか、という主張も当然にあり得るだろう。しかし、そうした経営観点に立ってのみの論理が有効なんだとしたら、大学は既に「大学」という言葉を捨てることになるのではないか。そうはいっても随分と前から部分的には(大宅壮一ではないが)「似非高等教育」機関にしか過ぎなかったのだから今更ってところだろうか。尤も自分がそうした「似非高等教育」を受ける態度しか持ち合わせていなかった「遊び人」の一人にしか過ぎなかったのだから、なにをか況やであるのだけれどね。
 例の映画「靖国YASUKUNI」について森達也と斉藤貴男が対談をしている。斉藤も以前に比べると随分ふっくらしてきたものだなぁと一瞥で誰だか判断できなかった言い訳にしている。

斉藤「相手があまりにも愚劣で低次元なんで、批判するこっちの方までバカみたいになってしまうのが悔しくて。」

 あの二人の代議士の発言に言及することになにか表現のできないもどかしさを感じていたのはそういうことだったんだな、と思ってみたりした。斉藤が言及しているプリンスホテルの後藤社長の「一年間も頑張って入試に望む、その子やその子の親御さんたちのことを思うと私は耐えられない」との同情に訴える手段の発言もふくめて、森が云う様に「稲田議員や有村議員たちも、本人にしてみれば善意や正義のつもりです。誰も悪意などない。でもこの善意や正義の集積が、実はとても怖い」というのがその中心となる点であることは明らかだ。「欲しがりません、勝つまでは」「贅沢は敵だ」なんて言葉を想い出すまでもなく、こうした言葉を投げつけあって「非国民」だ、「たるんどるぞ!」とその辺の一般市民を叱咤激励したあの左遷されてその辺をウロウロしながら軍靴ばっかり磨き立てていた職業軍人の様な格好をしてこれこそが「愛国」なんだと思いこんでいる人々の「正義」はその原点が悪意に基づいていないところに苦しさがある。単純明快な話こそが高齢者が集まっている日だまりでは力を持つし、そんな論点が病院の整形外科の待合室では力を持っている。そこに相通じる「善意」「正義」なんだなぁ、そういうのが。
 加藤典洋が「鶴見俊輔書評集成」全3巻の書評を4頁にわたって書いている。