ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

大学はそんなに儲かるのか

 昨日の産経新聞が【日本の議論】<日本の大学は多すぎる? 増える「ナゾの学部」>という記事をこちらに掲載している。長すぎるから引用しないがそのうちリンクは切れる可能性大。
 全国に大学は約760校もあるという。約20年間で約1.5倍に増えた。1310学部から2374学部に増えている。学生数が減少する中でどんどん簡単に入学できる大学が増えていく。総定員数は約66万人に対して大学・短大への入学者総数は約70万人だそうだ。聞いたこともない横文字がらみの学部・学科が増えていく。

平成15年度から設置基準が緩和されたことがある。これまでのように「大学設置・学校法人審議会」の認可を受けずとも、届けを提出するだけで新しい学部を設置できるようになった。毎年、新設される学部・学科は300前後

 と理由を明かしている。
 昨年春には、4年制の私立大学の47.1%が定員割れだという。
 それでも文科省が簡単に大学を設置できるようにした理由は一体何だろうか。
 大学は存続の危機に直面していると大学内の財政改革と称して良くこの武器が振り回されていて、大学職員はどんどん正規職員から非正規職員に置き換えられていく。伝統校ですらそんな状況である。
 もう殆どがAO入学や名目だけの選考試験で入学してくる大学や、専門学校と何ら変わらない状況にある大学も存在しているのは否定ができない。
 もう何年も前から大学の講義を、そして施設を学生自身が自分で判断して利用し、それを武器として学習・研究に向かうという能力を持って対応することができなくなっている。そもそも戦後の大学では偏差値上で上位のほんの一部の大学以外では、この記事中で桜美林大学諸星裕教授が指摘するように「社会のリーダーではなく、社会の土台となる大人を育てていくことが求められて」きていたのであって、その点はいっかな変わっていない。
 それはなにゆえかと云えば、大学が研究者養成のための機関ではなくて、社会へ出て行くための一通過機関に過ぎないという用途がどんどん広がったからである。それを誰が求めてきたのかと云えば、「変に知恵のついていない、歯車」が欲しかった企業の故だったといって良い。
 じゃ、なんのために大学に行くのかといえば多くの人たちは社会に出て、より高い収入を得て安定した生活をおくるための肩書きの入手であることは今でも殆ど変わっていない。しかし、それは大変に限られた一部の大学だけだ。
 じゃ、何が変わったのかといったら、「行くところがないから」「目処が立たないから」という要素がとても広がったということではないだろうか。今ではこれは大学院にまで広がりつつあるといっても良いかも知れないけれど。
 つまりそれだけ世の中に余裕ができているんだということかも知れない。そうした「シーズを的確に読んでニーズを掘り起こし、受験生に媚びて」学校産業が拡大しているといって良いのではないだろうか。しかし、これでは大学が自分で自分の首を絞めているといえないだろうか。そしてその足を引っ張っているのが文科省だ。
 親からしてみれば、少しでも高いレベルの教育を受けさせてやりたいと思うだろう。しかし、本人の指向がそうでない子どももやっぱりいる。うまい子どもは親や世間の意向に沿って「なんちゃって」だろうと、なんだろうと学校に行く。意識のある子達は大学に行く必然性を見つけられずに迷う。
 放送大学を20年掛けて6専攻すべてを卒業した81歳の男性のことが報じられていた(東京新聞神奈川2009年4月18日)。尤もこの人は東京大学出身の大手企業引退者で世の中からいえば恵まれた立場にいる人で、特殊だ。けれど、大学は必要だと思ったときにいく、しかもその時には安い学費で行くことができるというシステムが本来的には理想だろう。
 国公立大学が私立大学に比較してその優位性を保ってきた理由のひとつに学費の絶対的な安さがあったと私は理解していたのだけれど、今は大した差もなくなってきた。本来的にはこうした二重構造にするのであれば、国公立大学は安い学費の代わりに、そこで受けた教育を国・公共自治体にフィードバックしていくシステムでなくてはならなかったはずだ。しかし、それをないがしろにしてしまった。
 この社会のシステムは、学習・研究機関としての面を持つ大学が、金儲けのシステムとして存在する、いわば産業としての面ばかりになってきているような気がする。昨年は何人ものノーベル賞受賞者を送り出した日本の大学だけれども、彼らは彼らの才能の故にそこまで開花したといっても良くて、日本の大学教育政策が大きく開花してきた結果とはとても言い難い。
 文部科学省は長期的展望に立ってものを考えるという能力を持つ職員を重点的に採用するという観点を再点検する必要があるのではないだろうか。
 「ゆとり教育」「総合学習」をいとも簡単に捨て去った責任は誰がどこでどのように果たしたのだろうか。