ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

people 臣民、人民、市民、国民

 日本国憲法が作られたのは先のアジア太平洋戦争の直後の話。松本烝治委員会が大日本帝国憲法をほんのちょっといじっただけの案を作ったらGHQが業を煮やして、理想の民主国家像を頭に描いた「実験」とでもいうような憲法案を作った、自分のところでもできないような。
 その時の原案に「people」という言葉が使われていた。それをそもそも「国民」と翻訳したところから大間違いが始まった。
 これまでその「国民」という言葉が非常にその対象を限定する定義の中にあり、そもそもの「people」をなぜ「住民」とか「市民」という意味に使わなかったのか、疑問に思っていた。そこには一種排他的な意味合いがあるわけでそれでなくても排他的なところのある現状を見ているとそこにはある種の意図が隠されているはずだと思っていた。
 ところが保阪正康の「占領下日本の教訓」(朝日親書)を読んでいて、なるほどと思うところ(p.133)に遭遇した。

 私たちは占領下にあって「臣民」を捨て(前述のように天皇もまた「臣民」であることを求めていなかったように思うのだが)、「市民」になるきっかけをえたことになったが、そのときどのような動きがあったかを憲法改正の動きと絡ませながら見ておくことにしたいのだ。

 と始まってその後を書いている。
 ジョン・ダワーの指摘を引いてアメリカではpeopleを「人民」という意味で使っていたはずだという。しかし、この当時、日本で「人民」といえば主に共産党の用いる語になっていたから翻訳として使えなかったという。外務省の翻訳は「人民」としていたけれど松本烝治と佐藤達夫はそれをやめて、本質的に保守的な用語である「国民」を採用した。本来ならこの時も「人民」があまりにも政治化しているとすれば、「市民」という語がふさわしかったといえるように思うけれど、「市民」という概念はこの時はまだなかった訳だとしているのだ。
 この時に「市民」としていたら、今の様々な法律の中で「国民要件」を要求するものがどのように発展、規定してきたかを考えると大きな機転だったのではないかと考える。私がこれまで考えてきたことのひとつの回答になったといって良いのではないだろうか。

占領下日本の教訓 (朝日新書)

占領下日本の教訓 (朝日新書)