ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

あれもこれも

今年3月卒業の大学生のうち就職した人の比率が2年連続で減少し60.8%となったことが5日、文部科学省の学校基本調査(速報値)で分かった。前年度比7.6ポイント減と過去最大の落ち込み。就職も進学もしなかった人が8万7000人で16.1%(同4.0ポイント増)
 高校卒の浪人するなど進学も就職もしなかったのは6万人で5.6%(同0.5ポイント増)(時事通信社 - 08月05日 18:03)

 つまり、大学を卒業しても3人に1人は行く先がないということだ。
 どこか変じゃないか、とtwitterで書いた。そうしたら、年齢は知らないけれど、(多分)男の子が「上が使えているからだ」とコメントしてきた。どういうことだろうと思ったら、若い年齢層に較べて年上の層が多すぎるからだというのだ。
 情報を的確に正しく捉えることができないがままいくらでも発言できる、という時代を象徴しているなぁという感慨を抱いた。「高齢化社会」の到来を告げる情報はこれまで10年以上にわたって新聞でも、テレビでも、深い議論にはならないものの、表面的にはいくらでも流れてくる。それはただ単に「年寄りが増えて若者にしわ寄せしている」という概念を流し続けている。何故この事態が加速化されているのか、という議論までには至らない。
 高齢者の割合が増え、労働人口が非労働人口に較べて相対的に減少してきているということと、絶対的な労働人口全体が漸減していながらも、なおかつ労働環境の非正規化へ舵を切り続けた政権と財界のもたらした罪は深いということの区別がつかない。
 これは事態は深刻だと危惧している。twitter上の反応というものはハンドル・ネームという仮名で行われている場合が多いという点では2チャンネルと同様ではあるが、比較的まだ挑戦的、あるいは挑発的な場面は少ない。それは自ら繋がる人を選ぶことができ、繋がられたくない人間は排除することができるというシステムだからでもある。
 それでも、若者が反射的に「上の年代がいるから俺たちは恵まれないんだ」という意識を持つのだとしたら、秋葉原事件の動悸とほぼ同心円にいるといっても良い。上の年代、というのは歴史的な先行世代だけれど、その世代の存在を否定する、ということは歴史を否定することでもある。それは極論をすると、この国を否定することでもあり、この地球という人間社会を否定することにまで繋がってくる。ここまで考えてくると、その場に居合わせた不特定多数の殲滅をとっさに思い立ったとしても、論理的にはおかしくなくなってしまう。
 大学を卒業した人間の1/3が行き先が見あたらない社会をどうしたら変えていくことができるのか、というマクロ視点を捉えることができなくて、当面の敵であるという思い込みで目の前の敵を殲滅するというミクロ的視点で行動する思考回路はどこから始まるのだろうか。