ほぼ足りてまだ欲 その先

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世代間格差

 この歳になってネットにつなげることができて、様々なことを知ることが出来るようになった。こんな画期的なことはない。多分明治革命を遙かに上回る時代の転換が起きているのではないかという気がする。
 ブログを書き連ねてきて多分6年ぐらい経ったのかも知れない。そしてmixiに加わり、twitterでぶつぶついい、目がおかしくなるくらい毎日モニターに現れる文字を見つめてきた。
 ネット上で読むことというのはtwitterが良い例だけれど、じっくりと考えながら論理立て、振り返り、シミュレーションをしたりしながらする発言というよりも、その場で反射的に発想するようなことをどんどん発進していくという、ある種のテクニックが必要とされているようだ。それはいってみればディベートのようなもので、なにしろtwitterでは相手の発言の引用まで含めて140文字でしかないから充分その背景を説明している余裕すらない。他のところで文字制限に関係なく書いておいて、それをリファーするというテクニックもあり得るけれど、どちらかというと反射的に帰ってくる反論に対して間髪入れずに押し返していくというマメさも必要だったりする。
 そんな中で世代間格差のトピックや、近代史の解釈から始まるエスニックに対するレイシズム的なトピックといったものは嵌りやすい。なにしろ感情的な議論になりやすくて、一方的な解釈に陥りやすいし、挙げ句の果ては揚げ足とりになる。
 生産性が一気に下がる。いや、こんな議論に生産性もヘッタクレもないんだけれど、意図的に部分を取り上げて他を無視するという行為もしやすい。
 そんな中で若い人が中年ジャーナリストに対して、高齢者層を殲滅しないとこの国は良くならないのだと詰め寄っていた。
 彼の論理はこうだ。この国が高齢化社会になってきたのも、こういう社会にしてきたのもみんなこれまでこの国を動かしてきたと自負している高齢者層である。そして高齢者を支える制度を作ってきたのもその当事者たる高齢者なんである。然るに、今の若者たちはそうして作られた制度に乗って、無理矢理これまで好き勝手にこの国を創り上げてきた高齢者層を支えさせられているのである。だから、私たちはもうこの制度に従うことはせずに自分たちのためだけに社会参加をしていくのが、どこが悪いのかというのである。
 なるほど、今ある社会、今ある制度を作り上げてきたのは確かにこれまで社会を動かしてきた連中だ。それにはもう従えないというのであれば、では、この国が今現在動かしている制度をどうしたら良いというのだろうか、ということになる。
 今現在この国の経済を動かしている世代は何を必要としているのだろうか。自分が幸せに生涯を全うすることのできる財産なんだろうか。それさえ手に入れば他の人がどうなろうと関係ないのだろうか。それとも誰でもが、どんな才能を持っていようと、いまいと、等しく幸せな人生を送れることだろうか。自分が良くなればよいのであれば、それは世代間がどうという関係はないわけで、個人的に優位になることを望む以外の何物でもない。
 誰でもが等しく世の中の支えを享受できるようになることが究極の目的なんだとしたら、それもまた、実は世代間の問題ではない。
 彼が言っているのは、今の高齢者は濡れ手に粟で金が手にできるのに、今のわれわれ若者はその歳になった時にそれを享受できないというのは大変に不公平だといっているようである。
 彼のいう通りにこれは相当に不公平だ。しかし、それは正しい姿で運営してこなかった連中が問題なんであって、その制度化で働いて社会保険料を支払い続けてきた人たちに問題があるのではない。
 そこを糾弾して、糺していこうとする一つの手段がこの国が取っている議会制民主主義に即していえば、選挙だろう。そんなまどろっこしい手段を執っている場合じゃないんだ、ということで彼等が革命を目指して立ち上がるのであれば、それはそれで意味があるのかも知れない。しかし、ただ一方的に口汚く罵るのは相手に対してダメージを与えることにはなるかも知れないけれど、全く有効な手段ではないことは40年ほど前に証明されている。