ほぼ足りてまだ欲 その先

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人海戦術

 国家総動員令がなければ、この国はこういう危機からは脱却できないのだろう。次から次にごく普通の国民が日常生活を転換するというきっかけができずに、そのままその場で撃ち果てるという構造だろうか。
 これまでに政府がイニシアティブを取って原発周辺の居住者を待避させたのは周囲20km圏内の住民に過ぎない。しかも、これは地元自治体が避難所を設定して、周辺の自治体の施設を用いたもので、これは天災被害の「一時的避難」という概念でしかない。つまりあくまでも長期避難態勢を意識した待避ではないのだ。三宅島の噴火の際に東京都がとった政策は自治体全体を都内に移動するというものだった。それでもいわゆる長期間という概念からいったらむしろ比較的短期間というしかなくて、その最終的な姿は移民ではなくて、飽くまでも「一時的回避」でしかなかった。
 アジア太平洋戦争末期にあってはかつて強制疎開という手段を執ったことがある。その前には学童疎開として小学校(当時は国民学校)の児童を親から引き離して地方へ分散させた。親、年長者は兵役に就き、払底する労働者の代替えとして従事し、防空訓練に従事した。しかし、その後は元の地域に戻って焼け野原を一から復興させてここまでに至った。
 今回は原発周辺についていうと、戻って元通りに生活をやり直すことができるのかといったら、チェルノブイリの例を引くとそう簡単ではない。10年単位で語るしかないのだろうと想像することができる。つまり、今回の避難はまさに「移住」を意味している。
 しかも、その移住は急を要している。しかも、誰もそのきっかけを与えてくれているわけではない。誰も、それをイメージした時の大変なスケールの大きさに目眩を覚えて宣言することができない。これは歴史的な大事件であるというところまではイメージできる。しかし、その先がイメージできない。いや、したくない。なにしろやることは膨大だ。
 まだ、東電、政府、霞ヶ関の頭の中は、「ひょっとしたらこのまま大したことがなく収束することができるのではないか」という幻想が渦を巻いている。その間は何もできない。あとで責任を取るのがいやだからだ。
 しかし、考える必要があるのは、本当に「あとがあるのか」ということだ。このままずるずると決断を遅らせて、自らの責任を取るという決断をしないでいると、かなりの確率で「あとがない」状態に陥る危険性がある。その時にはどの様なことが起きるのかといえば、いつまでも若い世代が放射線を浴びたことによって生じる症状に悩まされ、国家の基礎が崩れる、ということになる。
 かつての「精神論」を振りかざして一億(実際には植民地を入れてだけれど)の民を道連れにした、あの官僚がそのまま継続してイニシアティブを執っているこの国では、このままなにもなされないまま、あたかも収束したかの如き状態でうやむやになるおそれがある。その結果は四半世紀を待つことになるのだろうか。だとしたらあまりにも学習能力がなさ過ぎる。
 とはいえ、「移住」はまたここでも一部の有資産層の特権で終わるということになりかねない。
 平凡な日常性への憧れを認識するという点では、負を負った非日常たる状況が役に立つことは事実だね。