ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

人間の記憶

 いくら半世紀前だとはいえ、自分のことだのに、こんなに覚えていないとは思わなかった。というのは、こういうことだ。
 私は小学校低学年の時に、ツベルクリン反応が陽性となって、なんだか近所の家庭医にとても足繁く通い、ざらざらした粒状の薬を飲み、学校を大幅に休んだ記憶がある。どうも私の記憶ではそれが冬だったような気がして、一年生の三学期だったとばかり思っていた。
 ところが古い写真のアルバムが見つかってみると、浴衣のような寝間着を着たまま外で小さな秋田犬の子犬を抱いている写真がある。それは全く寒そうではないのだ。多分父親が私を慰めるためにその犬を貰ってきたのだったかと思うのだけれど、その時はコロコロしていたその犬は、あっという間に成犬になり、散歩に連れて行くとぐいぐい引っ張ってとてもオフクロの手に負える代物ではなくなってしまった。
 この件についてはもうひとつ話の合わないことがあって、小学校一年三学期には母方のひいお婆さんが亡くなって岡山のオフクロの里に行ったはずなのだ。その時に不埒にも金光様の狛犬にまたがった写真がある。つまり、私が思っていた時期はこの写真でも間違っていたことが明らかだ。
 じゃ、今でも胸のレントゲンを撮ると医者が「肋膜炎をやった経験があるんですね」と確認する、その時期は一体いつなんだということになる。
 それが今回実家を倒した時に出てきた通信簿で明らかになった。それは小学校二年生の5月の途中からで、この月には6日間出席しただけである。6月は26日間全部休み、7月は夏休みに入るまで全部休んでいる。そして二学期から登校するようになったようだ。その上、1月には8日間も休んでおり、これが病気の影響だったのか、はたまた、オフクロの里にいったのも一年生の時ではなくて、ひょっとしてこの年だったのかも知れない。
 二年生の時の担任の先生は四宮先生と仰るのだけれど、「病欠のあと少々持久力に弱いようで、図工作品などにそれが表れているように見えます」と書かれている。つまり落ち着きがない、ということで多分いい加減に造っては遊んでいたんだろうと思う。根気のなさというのはこの小2の一学期に醸成されたのかも知れない・・ということにしておこうか。
 4年生の二学期の初めから清水市(現在の静岡市清水区)に転校するのだけれど、「相手の立場を考えながらお話ができると良いでしょう」と担任の高橋先生が通信簿に書いている。この時の通信簿には随分低い点がついている。よっぽど生意気に見えたのかも知れない。
 五年生の通信簿を見ると、一学期の担任の先生と二学期以降の担任の名前が違っている。それを見てようやく思い出した。確か学年始まりのクラス替えで優しい女性の先生のクラスになったのに、その先生が病気だったのか、お産だったのか、学校に来られなくなって二学期から私達の学年はシャッフルし直したような気がする。そして学年担任で一番怖いといわれる男の先生のクラスになってしまったのだった。ところがその先生は結構アイディアマンだったようで、スポーツに熱心だったし、クラスが盛り上がった記憶がある。この頃のクラスメイトで未だに年賀状をくれている男がひとりだけいる。もう40年くらい逢っていない。
 この先生が書かれたことを読むと、私は相変わらず放送委員会の仕事をやり、児童会にクラスの代表として加わっていたらしいことが窺える。放送というのは昼休みに放送機械が置いてある部屋にいって昼の音楽をかけていた記憶である。確か給食もそこへ持っていって食べていたのではなかっただろうか。四年生の時からそれをやっていたようだ。相変わらず字は下手だったらしく、根気の要ることは苦手だったようだ。下手な字の方は中学に上がってからクラス新聞のガリ版を切ることによって、丸文字へと変貌を遂げていく。
 おかげで犬のことまで思いだしたのだけれど、あの犬は可哀想なことに清水に連れて行ってからジステンパーにかかってしまい、わずか5-6歳で他界してしまった。オヤジはあれ以来大きな犬を飼うのを止めてしまい、コッカースパニエルだとか、シーズだとか、およそ本人に似つかわしくない犬ばかりを飼っていた。