ほぼ足りてまだ欲 その先

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英語力

 私の英語が最も高いレベルに達していた時が人生の中で2回ほどあって、最初のピークは1979年頃にやってきた。それは2ヶ月半ほど米国の田舎町でホームステイ体験をしていた時で、次は3年半の外国滞在を終えて帰国し、学校で英語中心の授業を受けていた時を意味する。(今は高校生の頃のレベルにまで低下している。)
 しかし、それでも私がなんの支障もなくこなすことができていたのは飽くまでも非英語圏生活者としてのコミュニケイトの場であって、ネイティブな人たちとの日常的な状況の中でのことではない。つまり、やっぱり「外国人としちゃあまぁ良くやるんじゃないの」的なコミュニカティブな部分。
 書く力としてはエッセーでさえ担当の教師からしつこく教えられてもなかなか理解することができなかったし、何がポイントなのかもしっかり把握できないくらいだった。だからおおよそいわゆる定型的な文章は書けたとしても、論文にまで高める力といったらおよそろくでもなかったことだろう。
 40代の中頃、英語力としては中途半端だった頃、働いていた会社の中で自分の英語力をどう自己評価するかという質問に答えなくてはならなかった。「会話はそこそこだけれど、ネゴ力としては不足」としたら相対評価しろといわれた時には驚いた。こんなもの、小学校の通信簿じゃないんだから相対評価するべきではなくて、客観的な絶対評価でなくては何の意味もなさないと主張したけれど、職場の安寧を損ねないで欲しいといわれた。
 良く「語学はツールであってそれが目的ではない」といわれるし、確かにその通りだ。「そのツールを使って何をするのかが大事なんだ」という。
 仰る通りである。言葉を読めて、言葉を発して、言葉を理解して、議論をし、交渉をし、確認をして暮らしている。言葉がなくてもそれができるのかといったら暮らすことは可能かも知れないけれど、ネゴはできないし、慰めることはできないし、励ますことはできないし、説得することはできない。
 断然と拒否したり諸手を挙げて賛意を表す、つまり喜怒哀楽は動作や表情でもできる。しかし、今何が不快で、その理由が何かを説明することは難しい。しかし、言語を用いるとそれは一挙に容易になってくる。理解しやすいし、理解されやすい。
 だから、「どうせ外国語なんだから下手で当たり前だ」と突き放してしまうのは、コミュニケイトできなくても良いや、理解されなくても、理解できなくても良いや、と居直ってしまうことになるし、井の中の蛙にならざるを得ないということでもある。それがわかっているから、近代日本は学校教育のなかに英語教育を取り入れてきた。この姿勢は非常に高く評価されるべき政策であるというべきだろう。しかしここでも問題なのは政策さえ打ち出せていればそれで行政の役割は終わりではないということだろう。往々にして仕組みを一度作ればそれで良しとされてしまうのが常だからでもある。
 それでも近年巷に表れる若い多言語能力者を見ていると時代が明らかに変わってきているんだということを知って非常に嬉しく驚愕する。これだけ多くの若者達が、思いもよらない言語を駆使しているのを知ると、ひょっとしてこの国は変われるのかも知れないというまだ淡いものだけれど、希望が見える時がある。時間はたくさんかかるだろうけれど、この国が変われるきっかけはやっぱり若者達が多くの接したことのない文化に触れるチャンスをできるだけたくさん持つことだというのは変わらないだろう。そのためにもごく普通にこの国の教育制度の中で育ってくる若者が意欲を持って、居直らずに多言語に接してくれることが望ましい。
 一つの重要なポイントは「居直らない」ということのような気がする。