ほぼ足りてまだ欲 その先

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戦後の日本はもうやめよう

 広島と長崎に原爆を米国が落として、あれがなかったら戦争を終わらせるということを日本がやれなかっただろうだなんてことをいわれるのは全く悲しく情けない。「そんなこと、ないよ!」と啖呵が切れないのがなんともである。多分、あの時点ではあの原爆がなかったら、日本人は誰も「もうこんな戦争はやめましょうよ」と決断することが出来なかっただろうなぁと思わざるを得ないからだ。
 「進め一億火の玉だ」ったし、子どもたちに爆薬を抱えさせて道路の蛸壺に潜ませる訓練をし、竹槍で突く練習を割烹着の女子に訓練していたんだから。「神の風」が吹いて必ずや逆転だと語っていたのだ。
 その原爆でさんざんなまでに放射能被爆してしまった広島、長崎でデーターを集めていたのが日本人の医師たちで、被爆者はアメリカにまで連れて行かれてデーターを収集されていたにも拘わらず、戦後の日本政府はそうしたデーターをとられっぱなしでそれをフィード・バックすることすら米国から許されなかった。自国民の被害を自国民が調査していながらなのだから、実に忸怩たる想いがつきない。
 それでももうあれから67年目に突入しているのに、あの原爆被害からなにも学んでいない政府、国民というものは一体全体、何をしてきたのだろうか。確かに原爆被害について研究するというと、何かしら後ろ向きで、否定的なニュアンスが漂っていたのは事実だろう。それよりも「核の平和利用」というキャッチフレーズを得ていた原子力発電システムの研究にいそしんでいた方が金にもなるし、何しろ近代的な、日の当たる場所であったことは間違いがない。
 しかし、本来的にはそれらは表裏一体になっていなくてはならなかったはずだった。なんでもそうだけれど、新技術、新製品の開発に当たっては、必ずそのウラを検証しなくてはならない。だから、遺伝子組み換え食品は突き進んではならないはずだ。簡単なところからいえば、グラスファイバーの開発は軽くて耐久性抜群の夢の素材だったけれど、じゃ、廃棄する時にどうやったら廃棄できるのかという大きな問題がある。なにしろ「造る」ということには人の目は向くけれど、「捨てる」という段階について誰も考えようとはしない。もちろん原発についても一番の重要事項であるにも拘わらず、廃棄処理という点では文字通り致命的だ。
 だから、本来的には原発システムの拡大については常にウラにある、もしもの時の問題点を語らなくてはならない。それをこの「被爆国」は目をつぶってきた。
 今こそ目を見開くチャンスであって、この機会を失うと、われわれ自堕落でいい加減な日本民族はまた目をつぶり続け、被爆被害者に思いが至らずに「経済性」なんてことで糊塗しようとする。あなた!あなたが被爆者だ!