ほぼ足りてまだ欲 その先

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ここまで来たんだから

 今日、築地の本願寺で57歳で死んだ中村勘三郎の葬儀があったそうで、テレビはそのことばかりだった。57歳はちょっと早すぎるけれど、彼は幼い頃からテレビに出まくっていたからなんだか私と同じ歳ぐらいな気がしていた。実は若いので、あんなにたくさん動けても当たり前だったわけだ。それにしても57歳は若すぎた。
 昨日鈴本で出てきた内海桂子は90歳で今でも同じことをやっている。数年前に国立演芸場で見た時とやっていることは寸分違わない。とはいえ、90歳で人前で奴さんを踊ってみせるんだから、図々しいと云えばいえるが凄いといえば凄い。「じゃ、King Servantをやるわよ!わかる?なんのことだか?奴さんだよ!」と云ってまた受けていた。これももう何回も聴いている。玉川スミ亡き後(今年の9月に92歳で他界)は内海桂子である。そのあとには80歳のあした順子もいる。
 私はまだ65歳で、若造だ。若い!昨日の金原亭馬生と同じ年齢で、彼の方が半月歳上なだけである。しかぁ〜し!勘三郎は57歳で死んじまった。彼は突っ走り放しだったからあっという間に人生を突っ走っちゃったといっても良いだろう。
 そこへいくと私はどうだ?ずっと座り続けている。ずっと座り続けているから、実に体力の衰えは肉体としての人間の本来のものを備えている。どういう意味かというと、いろいろとジムに行ったりなんかして、あるいはウォーキングなんかしちゃって一日に2万歩なんて歩いちゃったりしている人というのは本来の人間としての身体的自然劣化に反しているということなんである。つまり純粋なる人間の天から与えられた肉体に人工的な施術を加えてしまったものであって、これは天に唾するような行為であると云うことができよう。
 ということだから、私は天より与えられた肉体のまま人生を送りつつあるという、非常に敬虔な宗教心に目覚めた生活を送らんとしていると云うことなのである。尤も生物学的に考察すると人間というものの特性は150年ほど機能しても良さそうだという研究もある。これは細胞の寿命、およびその細胞の相互的補完性の物理的限界を計算した場合のことであり(こんな奴の云うことをまともに聴いちゃいけませんよ)、地球物理学的考察を加味せずに考察した場合のことであるので、大いに割り引いて考えなくてはならない。それらを加味して考えると、どうやら65歳くらいが潮時のようなのである。(よくわからん。)それにしても20%ほどの誤差を考えに入れても良いのではないかという考えもあり得ることであるので(根拠が全く不明なれど)どうやら67歳もしくは68歳程度で私の寿命が尽きることも検討の余地があるだろうと云うことである。
 昔から、一家心中というものはその実行直前に思いもよらないほどの贅沢な旅館に一家で泊まり、前夜の夕飯をみんなで「あぁ、旨いねぇ」と食べながらなぜか涙を拭いていたのが印象的だとその時の仲居さんがあとで証言することがあったものだ。
 そんなかつての習慣を鑑みるに、このあたりで私も一度贅沢をしても良いのではないか、という気になりつつある。しかるに、私にとっての「贅沢」というものが何か、という話である。これについては追々考察を深めていくのがよいのではないかと考えているところである。