ほぼ足りてまだ欲 その先

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生活保護

 社会保障審議会(厚生労働相の諮問機関)の生活保護基準部会が検証報告書をまとめ、発表。生活保護の生活費に当たる生活扶助の支給水準(基準額)が低所得者の一般的な生活費を上回り、「逆転」するケースがあったとしている。
 同時にこの審議会の「生活困窮者の生活支援の在り方に関する特別部会」は自治体の調査権限強化などを盛り込んだ制度見直し案を出した。

生活保護は住宅、医療など八つの扶助で構成。そのうち生活扶助は食費や衣服、光熱費などを賄う。
 基準部会は収入が全体の下から一割に当たる低所得者世帯(平均年収約120万円)の消費実態と生活扶助を比較した。
 試算によると、月約18.6万円を受給する夫婦と子ども(18歳未満)二人の世帯では低所得者の生活費約15.9万円より約2.7万円(14.2%)高かった。そして夫婦と子ども一人の世帯は8.5%、20~50代の単身者世帯は1.7%高かった。
 一方、60歳以上は単身者、夫婦世帯のいずれも低所得者の生活費のほうが高かった。(東京新聞2013年1月16日 夕刊)

 こう結論づけている。となると、次の議論はどうなるのかというと、マスコミの論調を見ていると自公政権が主張しているように「生活保護費を下げる」という方向にいきつつあるように見える。
 生活保護というのは一体何のために設定されているものなのか。日本国憲法の第25条にはこう書いてある。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」生活保護費の切り下げは生活の向上および増進に勤める結果とは思えない。本来的な意味から逸脱している。議論が本末転倒している。
 低所得者の一般的な生活費とは何か。これは所得を意味していない。必要な支出費用、ということである。さて、こうなると一体何が最低限なのかという議論になってしまう。これは社会保障政策史においてはいつまでも続く議論である。どんな指標を作っても必ず議論になるというか、けちがつく。
 今本来的にここで議論にならなければならないのは、雇用の大量な喪失なのである。もちろん景気が良くなったらそれはすべて解消するのかといったらそうではないだろう。根本的に議論されなくてはならないのは、この国の労働環境を大きく変えてしまった労働者派遣法である。
 これだけ非正規労働を普遍的なものにしてしまったのはあの労働者派遣法の改正だった。これを経済のグローバル化に対応していくための手段であり、これを実行しなかったら日本の経済はより大きく落ち込んでいただろうという解説は全くの嘘っぱちである。それは市場の新自由主義を主張する一派の常套手段である。
 あたかも「銃は悪くない、それを扱う人間性の問題だ」といって米国の銃規制をプロテクトする「全米ライフル協会」の主張のようなものだ。自国の労働者を安く叩いて雇用して、生活保護を悪者にする論理はこの国の国民からの収奪を正当化する一手段でしかない。
 生活保護の運営には反省しなくてはならない部分はたくさんある。例えば怖い連中からの申請を拒否してえらい目にあってしまう地方行政窓口は断固たる対応をしなくてはならないのだけれど、これは警察の力を借りることなく実現できると本当に思うのだろうか。自律することのできない保護利用者を一体どの様にして自立させていくのか。
 そして、問題はその生活保護すら及んでいない人たちをどうするのか。こっちの方が問題は大きい。