ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

うどん

 私は無闇矢鱈と饂飩が好きで、温かいつゆの中に入れて食べるのはもうくったくたに煮込んじまった饂飩が大の好物である。その上につゆに浸ってくたぁ〜っとなった天ぷらなんぞが載っていて挙げ句の果てに卵でとじてあったりしたら、もういうことはない。そんな時は必ず七味唐辛子を入れたものだけれど、今年はどんな時でも饂飩には生姜だった。しかしこれも度が過ぎると苦くなるので、その頃合いが分からない。そもそも味にしてもそうなんだけれど、頃合いは難しい。これは永年の経験がいる。
 だからといって、この饂飩なんだけれど、半田麺や細ければいいのかといって、にゅうめんにして貰ったらこれはこれで困る。あのあたりはぐだぐだにならない。いつまで経ってもつるっとしている。それが許せない。終いにはぶつぶつになってしまう程度の粗雑な饂飩でも良いからそういうのが良い。
 ところが蕎麦になるとつゆにつけて食べる冷たく水にさらしたものでないとダメなのだ。と、これはこれまでにも何度か書いている。しかし、その度になんでつゆに入った温かい蕎麦がダメなのかについては多分ここでは触れていない。
 それは中学生の頃だったかも知れないのだけれど、その年わが家にしては非常に珍しく、大晦日の夕方に近所の「やぶ蕎麦」に天ぷら蕎麦を人数分注文した。いつもだったらそんな蕎麦屋が一番忙しい日にわざわざいつ届くか分からない蕎麦を注文しなくても良さそうなものだけれど、多分オヤジがその気になったのかも知れない。
 ところが何があったのか記憶にないのだけれど、いざその蕎麦が届いた時に誰かが食べなかったらしくて、一杯平らげた私の前にもう一杯の蕎麦が置かれたのだ。何しろ調子ノリの上に大晦日で浮かれていた私はもう一杯かっ込んでしまい、挙げ句の果てに気持ち悪くなってしまったのだ。
 それ以来、温かいつゆに入った蕎麦を口にすると、その時のことが必ずよみがえり、それは今に至るまで綿々と引きずっている。こういう現象をPTSDと呼ぶのだ。
 温かい饂飩は実に私に優しく接してくれる。その私の好みにピッタリなのが「ゆで太郎」の饂飩なのだ。暫く食べていないなぁ。