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文春

文藝春秋 2014年 10月号 [雑誌]

文藝春秋 2014年 10月号 [雑誌]

 昨日発売になった月刊文藝春秋に早くも「昭和天皇実録」についての半籐利一・保阪正康磯田道史歴史学者)の三人の鼎談というものが載っている。40頁ほどで、そのあとに「宮内庁OBが明かした編纂の内幕」という記事が続いていて全部で50頁弱である。
 これを読むためにとても久しぶりに月刊文藝春秋を880円を費やして入手。保阪正康がいう通り、週刊文春はもう手にする気持ちにもならないけれど、この月刊文藝春秋も半分以上は目にする必要もないような記事ばかりだけれど、時々こんな興味深い記事も出る。しかし、宮内庁が設定したルールを平気ですっ飛ばして周りのことなんて考えもしないやり方というのははなはだ面白くない。というのはこういうことだ。
 「昭和天皇実録」が一般公開されたのは一昨日、9月9日のことである。8月22日に宮内庁記者クラブ各社に媒体に入ったデジタルの状態で配布されたのだそうだ。そこからプリントアウトするとどこ当てに配布したものかがわかるようになっていたそうだ。文藝春秋社はもちろん宮内庁記者クラブのメンバーではない。ではいつどこから入手したのだろうか。
 「昭和天皇実録」は当初9月17日公開予定(これを解禁という)だったそうである。文藝春秋が10日発売の号でこれを扱うということが明らかになって、それが9日公開に急遽繰り上がったそうだ。だから、新聞各社は突然の繰り上げに慌てて中身の分析にかかったのではないだろうか。これで文藝春秋は何も周辺から抗議を受けないのか。宮内庁は黙っているのだろうか。

 宮内庁は9日付で、昭和天皇の生涯の公式記録「昭和天皇実録」の内容を公表した。戦前や戦中、軍部の専横に不快感を抱き、戦争回避を模索しながら止められなかったことを戦後も悩み続けたことが、あらためて浮き彫りになっている。
 宮内庁によると、国内外の公文書や元側近の聞き取りなど3152件の資料を基に編さんした。太平洋戦争開戦時に昭和天皇を支えた百武(ひゃくたけ)三郎侍従長の日記など、約40件は未公表資料。天皇の公私にわたる全体像を把握できるようになり、昭和史研究の基礎文献がまとまった意義は大きいが、研究者は「歴史の通説を塗り替えるような新事実はない」とみている。
 陸軍青年将校らがクーデターを図った1936年の二・二六事件では、天皇が4日間で40回以上、本庄繁(ほんじょうしげる)侍従武官長と会って指示などを繰り返したことを記述。詳細な面会時間まで明らかになるのは初めてで、事件鎮圧に強い決意を持って臨んだことが分かる。
 ロンドン海軍軍縮条約の調印に反対し、海軍トップの加藤寛治(ひろはる)軍令部長天皇に直接辞表を提出した1930年6月には「本日は殊に御心労在(あ)らせられたる御模様」とあり、軍部の対応に疲労する天皇の様子を侍従日誌から引用。1941年7月、対米開戦を主張する海軍の作戦にも、天皇は「捨て鉢の戦(いくさ)をするにほかならず、誠に危険」と危惧していた。
 戦後に、戦争へ至った経緯や戦後の退位論などについて側近に回顧して語り、それが複数の「拝聴録(はいちょうろく)」としてまとめられたことは知られていたが、四六年秋や五三、五四年に作られていたことも新たに確認された。
 実録は、天皇の生涯を確実な資料に基づいて記した年代記宮内庁が逝去翌年の1990年から編さんを始め、24年余で完成。今年8月に天皇、皇后両陛下に提出した。全12,000ページ。大正天皇実録が一部黒塗りだったのに対し、今回はすべて公開された。来年3月から5年計画で公刊される。(東京新聞2014年9月9日 朝刊)

 12,000頁はかなりの大著だけれど、これが公刊されたら多分相当に売れるだろう。「独白録」が出た時のショックほどのことはないかもしれないけれど、昭和天皇が生まれた時からのことを読むと驚くことが多々ありそうだ。
 ところで昭和天皇は戦後の日本各地巡航は最後が北海道だったそうで、それにはGHQの心配があった結果だったようだけれど、このとき昭和天皇は帰京の足に初めて飛行機を利用したそうだ。当時すでに貞明皇后が逝去していたこともあるらしい。
 昭和天皇靖国との関連についてもうなずけるバックグラウンドがあるらしい。