ほぼ足りてまだ欲 その先

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桑野鋭(1858-1929)

 まるで新聞各社のように「昭和天皇実録」の話ばかりで恐縮だけれど、この人の名前がこれまでほとんど知られていなかったということで今話題(どこで?)のようである。

 実録などによると桑野は福岡県出身で、新聞や雑誌の記者、自由党員などを経て、1889(明治22)年から宮内省(現・宮内庁)に勤務。華族関係の雑誌編集がきっかけだったという。1917(大正6)年の退官まで、大正天皇が皇太子時代の東宮主事や、幼少の昭和天皇の「傅育官(ふいくかん)」(養育担当)などを務めた。
 実録には、日露戦争日本海海戦(1905年)の直後、4歳の昭和天皇が桑野から勝利の報を聞いたり、桑野が献上した硯(すずり)を使って絵を描いたりしたことが記されている。さらに、8歳のころ「桑野鋭より種々相撲の話をお聞きになり、それより雍仁(やすひと)親王(弟の秩父宮)・御学友等と盛んに相撲をお取りになる」との記録もあり、天皇の相撲好きの原点に彼の存在があった可能性がある。
 桑野の著作には訳書もあり、外国の言葉や文化に通じていたとみられる。幼少期の天皇を知る上で、日常を細かく記録した日記が果たした役割は大きい。宮内庁はこの日記を古本・古物商を経て購入したという。
 そもそも、なぜ宮内省は彼を養育担当にしたのか。皇室の歴史に詳しい所功京都産業大名誉教授(日本法制文化史)は「明治時代は皇室でも近代化、西洋化を積極的に進めた。自由民権論者の多くに幕末以来の尊皇愛国思想があり、天皇のもとで万民平等の社会づくりを理想としていた」と指摘。「私も桑野さんを知らなかったが、個性ある有能な人材を皇室に受け入れた良い例として注目したい」と話している。【山田奈緒、大久保和夫】毎日新聞 9月9日(火)15時0分配信