ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

人間性

 安倍晋三自民党公明党連立政権においては「人間性」とかヒューマニティーというものはまったく問題にはならなくて、とても気分が悪い。
 文部大臣になった男がこんなことを平気でいっていたっていうんだから、世も末で、これは「バカな奴らだ」ではすまない。

 「私の身体を見れば生徒は『馳は怒らせると怖い』と分かるのです。(中略)では殴ったことがなかったと言えば、必ずしもそういうわけでもない。(中略)ですから一週間に一本くらいは竹刀が折れていました」(孫引きで恐縮ですが、IWJが『正論』(2008年6月号)に掲載された馳浩義家弘介との対談で語ったもの。ちなみに馳浩ヤンキースにいた松井秀喜の出身校、金沢の星稜高等学校出身で自らここで教師をした。そういう点では義家弘介と境遇は似ている。)

 この種のやったもの勝ち、黙らせればいい的な価値観の持ち主がそのまま大臣になっちゃうなんて、とんでもない話なんだけれど、それがとんでもないと受け取られないというのが実に乱暴な話。
 情けない。この歳になってこの社会がどんどんそんな乱暴な価値観に席巻されていくのを見ているのが辛い。
 対談相手の義家弘介は直接面識はありませんが、不思議な縁で接点があります。うちの息子は高校時代、北海道にいっていました。なぜか。中学で学校に行けなくなったからです。それは多分に私の影響があると思います。しかし、彼は高校へは行きたいといったのです。たまたまご指導を戴いていた東京都の児童教育研究所の先生にご紹介を戴いて、話を聞きにいったのが北星学園余市高校だったのです。
 北星余市は札幌のキリスト教系の名門女子高校北星学園の姉妹校です。しかしながら、北星余市高校は地域の底辺校で、北星学園はもう廃校にしようとしているところで、先生方がそれなら、高校を追い払われた、あるいは行かれなくなった子どもたちを受け入れる学校にしようと全国に声をかけました。
 当時は学校へいってみると、見るも無惨な状態でした。月曜日朝の朝礼をみたのですが、大きな体育館に、生徒たちがズルズルと椅子を引きずってデレデレ入ってきます。それでも、先生方は気持ちの良い対応をしています。
 とにかくやり直す気で息子は近所の方が経営する寮へ入って高校生活を始めました。夏休みに帰ってきました。秋休みの時だったかに、やめたいと行って帰ってきました。やっぱりダメだったかと、それでも現状を受け入れなくちゃなと思っていたのですが、つれあいが学校に相談に行きました。すると、担任の柔道の先生が、「じゃ、俺のうちに下宿しろ」といってくださったのです。実は寮でいじめられていたらしいのです。連れ合いの話によるとあざを作って帰ってきたこともあったのだそうです。当時は乱暴者で学校を追放された生徒が大半を占めていました。うちの息子はそれから無事に高校を卒業することができました。
 なぜ、彼はそこまで行けたのかといったら、勿論本人が頑張ったということもありますが、とにかく北星余市の先生方はそれこそ24時間勤務なのです。寮で問題があれば、駆けつけ、学校で事件があれば、本人と対峙して、決して逃げずにとことん理解し合おうとします。毎日クラス新聞を書きます。職員の間でも問題点をつまびらかにします。
 問題を抱えた子どもたちのほとんどは途中から大人から見放されてきてしまったという状況を抱えていました。多分それは今も変わりないと思います。しかし、北星余市の先生方は決して見放さない。日本の教育棄民をそのままにしない。本当に心の底から、先生方には頭が下がりました。
 息子の卒業文集に私は親の一人として、「北星余市は生徒だけの学校ではなくて、親の学校でもある」と書きました。
 息子が下宿していた柔道の先生は伊藤英博さんとおっしゃって2013年に残念ながら逝去されましたが、元はといえば機動隊に属し、東京オリンピック柔道の候補選手だったという猛者。残念ながら膝の怪我でオリンピックを断念したという。はっきりいって私は初めて柔道着姿でおられた先生を前にしたときにがっかりした。なんだ、やっぱり力尽くの学校なのかと。それが全然違った!まったく違った。当時先生は北海道のテレビの取材を受けた。その番組をビデオで見たら、「見つけたのは柔らかい手(対応の仕方)なんですよ」と述懐していたのが忘れられないのです。つまり力で押したって、対立するだけだと。それからは学校祭にいったり、競歩会で生徒たちと一緒に30km歩いたりした。余市の自然は冬は厳しいけれど、秋は果物満載です。卒業式には当時赴任していた豪州から家族三人で出席した。涙涙だった。
 その学校に安達俊子先生がおられました。先生は2000年に退職されてから引きこもりの人たちの支援センターをやっておられます。義家弘介が立ち直ることができたのは足立先生の尽力が大きいというのはテレビのドラマや映画になったときに広く知られることになったのですが、あの学校にはそうした先生がずらずらとおられたのです。
 そんな学校であんなに素晴らしい先生方に囲まれて目覚めた青年がなんでこんな事になってしまうのか、私にはとても理解ができないのです。ちなみに義家弘介の養父の方が私がかつて仕えた上司のお一人だった知ったのは私が会社を退社してからもう随分経ってからのことでした。