ほぼ足りてまだ欲 その先

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振り返り

 歴史というのは振り返ることによって検証されるわけだけれど、私たちは71年前に終止符を打ったあの戦争を自らの手できちんと検証することをしてきませんでしたね。公的にその振り返りをしたのが「極東軍事裁判」だったというしかないのですが、それをある種の人たちは戦勝者による敗戦者の一方的な裁きだと断じています。では、一方的ではない裁きというのはどのように行われるべきだというのでしょうか。それは敗戦の側も自らの手で検証するということになるのではないでしょうか。
 ところが大変大事なことなんですが、ポツダム宣言を無条件に受け入れる、となった途端、すべての記録書類の類いを焼いてしまえと命令が出たのだそうです。従って帝都は各機関が燃やす書類から登る煙で煙ったといわれています。それがのちに「極東軍事裁判」で大変に不利に働くことになったわけです。つまり、自分では気がつかなかったものの、自分の首を絞めていたということになるのですね。これは随分よく知られたことですが、今の世の中とは大きく違っているのは、この命令が末端の自治体機関まで瞬時に伝わるということはとても考えられないことで、その後各地から、中央政府が隠したかったことがボロボロと出てきてしまいました。
 しかし、今に繋がる中央政府は今や、あれは一方的な裁判だったと言い換えてきていますから、そんな資料が出てきちゃうと、これは言い訳が出来なくなってきてしまうわけでございますなぁ。
 戦犯といわれる人たちの中にも様々ないわゆる「戦犯」がいて、侵略戦争をあそこまでごりごりと、暴力と罵声と欺瞞で推し進めてきた人たちと、捕虜収容所で連合軍捕虜を監視した人たちが一緒に語られたのでは申し訳がないし、慰安所を経営してぼろ儲けしてきた人たちとガダルカナル島で餓死することになってしまった人とを一緒にして、「勇者」と語ってしまうことに対しての後ろめたさは、歴史を自分たちの手で振り返っていないからなのだ、といわざるを得ないのです。
 そして、この種のことはちょっと油断するとすぐに忘れてしまいます。それは多分あまり快適なことではないからなんじゃないかと思うのです。世の中には思い出して辛いこと、慚愧に堪えないこと、恥ずかしくて仕方の無いことは確実にあります。しかし、それに蓋をしてみないふりをしていると、頭の中からいつの間にか排除してしまいます。人間というのはとても便利に出来ています。だから油断をしてはいけないのです。だから、いつまでも繰り返して思い出さなくてはならないのです。