うちの親父が死んでから今年で丸30年。
おふくろが死んでからでも丸18年が経った。
親父が死んだ時、「はて、うちの宗旨はなんだ?」と。
親父の実家のいとこに聞くと、日蓮宗だという。
おやじは次男だったかなぁ。
それすら良く知らない。親父には実家を継いだお兄さんがいた。
実家といっても岡山の単線無人駅から徒歩5分くらいの百姓家で、3-4度くらい行ったことがあるだけだ。
宗旨はわかったけれど、さて、どうしたもんか。
親父はある日急に思い立ったかのように神棚を吊るして拝みだしたそうだけれど、なんでなのか、自分の弔いをどうしてほしいのかも何もいわずに病院で黄疸の治療だか検査だかで入院している間に死んだ。
なんで入院したのかも知らなかった。
おやじの実家の菩提寺から横浜の日蓮宗のお寺さんを紹介してもらって、急遽駆けつけて弔いをお願いした。
しかし、それまで仏教になんの興味もなかったもんだから、お寺さんにどれくらい包んで、何をお願いしたものなのかもわからなかった。友人の浄土宗の住職に聞いたら、どうやら日蓮宗で戒名つけてもらうと高いらしいが、何しろ相場というものがわからない。しかも、バタバタと戒名を付けてもらって、通夜の段取りを付け、会場を押さえてもらい、葬儀社と打ち合わせ。おやじが働いていた会社の人達とも連絡があったり、手伝えないと挨拶がきたり。親戚は岡山から駆けつけてきて、通夜の晩はひっくり返すような大騒ぎ。よっぽど人気がなかったのか、葬儀告別式は比較的静かだったようだけれど、もう記憶にない。その年の暮にはつれあいの母親が急逝し、年が明けたら私の母方の実家のいとこが急死した。挙げ句にその夏には外国へ赴任だ。もうあの辺りの記憶はぱたっと消えてしまったかのようだ。
あれ以来、横浜の日蓮宗のお寺さんから施餓鬼の連絡が来れば、わざわざいって塔婆を書いてもらい、それを持って墓地へ参りにいった。毎年維持会費を正月に収めてきた。
その間、母親が亡くなったときも、そのお寺さんの住職にお世話になった。
しかし、私自身はまるでいい加減なキリスト教徒で、COVID-19以降ろくに教会へもいかないほどのいい加減さである。つれあいの実家も実は日蓮宗であるけれど、つれあい自身もとんと宗教的にはなんの興味もないし、信仰的意識も持ったことはないし、できることなら死んだらなんにもしないでもらいたいという。できることなら海にまいてくれという。子ども二人もなんの宗教も持っていないし、彼らには子どももいない。つまり、わが家は宗教的には私以外は完璧な無宗教であって、葬式仏教でもないし、初詣神道ですらない。
もうそろそろ、日蓮宗のお寺さんにも、偽日蓮衆徒を白状して縁を終わらせる必要がありそうだ。これも終活とでもいうのか。好きな言葉の使い方ではないな。