ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

テレビの音

 ニッポン放送を朝早く聴いているとテレビの音声を赤外線発信で手元の小さなスピーカーに飛ばすという「みみもとくん」というものを売っている。「ねぇ、今なんていったの?」と一緒にテレビを見ている連れあいに尋ねては顰蹙を買っている手合いにはぴったりというものなんだけれど、残念なことにこれは音声の発信機をイヤフォンジャックに突っ込むというシステムなので、これを突っ込むとわが家の安テレビ自体からは音声が出なくなってしまう。すると手元のスピーカーでしか聴けないのでは一緒にテレビを見ている人にとっては邪魔になりそうである。
 私はどうしているかというと(やっぱり耳が遠くなっているのがわかるんだけれど)、小さなSONYの名刺型ラジオを片耳に突っ込んでいる。ただし、このラジオはVHFの12チャンネルを網羅しているだけなので、BSやらケーブルが網羅しているチャンネルではこの手は使えない。ただし、これは夜中や早朝家人を煩わせずにテレビを見ることもできるので、結構重宝している。
 私の死んだオヤジは70歳を超えた頃から本当に耳が遠くなってきていたので、遊びに行くと大音響でテレビが鳴り響いていた。自分の部屋ではあったけれども、それこそがんがんだったから、遊びに行ってもその部屋に入る気力をそがれたものだったことを想い出した。

「新編 靖国神社問題資料集」

 今朝の各新聞はこの資料を国立国会図書館が公表したことを報じている。靖国神社が所蔵する非公開資料や、厚生省と神社側との協議内容など、計808資料、約1200ページというからいろいろありそうで、いわゆるA級戦犯に限らず戦犯とされた人についての合祀に関わる当時の厚生省と靖国神社の協議の経緯がわかりそうである。
 ところで、中日新聞こちらの記事で、「インドネシア慰安所を経営し、BC級戦犯として有罪判決を受けた後、獄死した男性について、厚生省(当時)と靖国神社が1967年に合祀を決めていたことが28日、国会図書館が公表した「新編 靖国神社問題資料集」に盛り込まれた靖国神社の内部資料に明記されていた」と報じている。

靖国神社 慰安所経営者も合祀 国会図書館資料初公表 2007年03月29日 中日新聞
 日本占領下のインドネシア慰安所を経営し、BC級戦犯として有罪判決を受けた後、獄死した男性について、厚生省(当時)と靖国神社が1967年に合祀(ごうし)を決めていたことが28日、明らかになった。国会図書館が同日公表した「新編 靖国神社問題資料集」に盛り込まれた靖国神社の内部資料に明記されていた。政府は、いわゆる従軍慰安婦について「おわびと反省の気持ち」を表明しているが、一方で慰安所経営者の合祀を進めていたことになる。
 靖国神社が、占領下のアジアで慰安所を経営していた一般人の合祀を決定していたことが判明したのは初めて。
 この内部資料は、1967年5月9日に靖国神社洗心亭で開催された厚生省援護局と神社側の会議の様子を記録した資料「合祀事務連絡会議開催につき(報告)」。厚生省側から合祀事務の担当課長以下7人、神社側から担当の権宮司ら2人が出席、これまで合祀を保留していた対象者について合祀の可否を検討した。
 資料によると、このうち「法務死亡者(一般邦人)」として、「櫻クラブ経営者。(訴因、婦女子強制売淫刑10年受刑中病死、り崎ろ第233××号)」とされる人物が記載され、「合祀する」と判断されていた。
 BC級戦犯裁判に詳しい研究者によると、この経営者は1943年9月から1945年9月までインドネシアバタビア(現ジャカルタ)で慰安所を経営していた実在の人物。現地の女性らに強制的に売春させたとして、オランダ軍による戦犯裁判で有罪判決を受けた。1946年11月末から現地で服役し、翌月末に病死した。
 財団法人「女性のためのアジア平和国民基金」が1998年末にまとめた「『慰安婦』問題調査報告」は櫻クラブを「一般邦人向けの慰安所」としており、日本軍は慰安所の「設置や規則に関与していた」が「軍が組織として設置したり、将兵たちの使用目的のために設置されたわけではなかったようだ」と記述している。
 国立国会図書館が28日公表した「新編 靖国神社問題資料集」はA4判で約1200ページ。靖国神社の内部資料のほか、米オレゴン大が所蔵する連合国軍総司令部GHQ)の調査担当者が収集した資料、中曽根康弘内閣当時の閣僚参拝に関する懇談会資料などがまとめられている。
 4月をめどに一般にも閲覧可能とし、ホームページにも掲載する予定。

 この記事の中に出てくる「法務死」というのが私には何を意味するのかがわからないのと、靖国神社に一般人が祀られているということが普通のことなのか、特別のことなのかもわからない。尤も今度は「一般人」という言葉の定義が必要になってくるわけだろけれど。ウィッキペディアにはこんな記述がある。

 法務死(ほうむし)とは政府が犯罪と認めていない戦犯裁判による刑死者や収監中死亡者を指す用語。公文書用語であるとする説が多いが、政府が実際にこの用語を使用しているのかどうか、はっきりした根拠がない。
日本政府は戦犯処刑者も「公務死」と認定して恩給なども支給している。

 「政府が実際にこの用語を使用」していることが今回の資料によってわかったけれど、その根拠は不明ということになろうか。

都知事選挙 なんも聞こえてこない

 投票日まであと10日間になろうというのに、なんも聞こえてこない。ビラを見たのは共産党のものだけだ。全然気がつかなかったのだけれど、どなたかのブログにこんな記事のことが出ていた。

石原氏著名人頼み、紀香・北島らコメント <東京をどうする 都知事選4・8投開票> ニッカンスポーツ[2007年3月27日8時15分 紙面から]
 3選を目指す現職の石原慎太郎氏(74)の選挙事務所は26日、著名人の顔写真が入ったマニフェスト(公約集)ビラの配布を開始した。逆風を意識して「少しは反省してよね! だけどやっぱり石原さん!」と大きく書き、周囲に歌舞伎俳優の中村勘三郎(51)女優の藤原紀香(35)競泳の北島康介(24)らの顔写真と、それぞれのコメントを配した。公約の羅列となっているほかの候補者とは、ちょっと違ったビラとなった。
 石原氏のマニフェストビラには著名人8人の顔写真と、それぞれが寄せた約20〜50文字のコメントが掲載されていた。
 中村勘三郎は「江戸、東京の伝統文化をしっかり伝えてくれる石原さん、よろしく頼みますよ」。藤原紀香は「音楽・芸術・文化を大切にする石原さん期待してます」。北島康介は「石原さん、東京でオリンピック絶対やってください」。石原氏の選挙事務所は「石原の政策への要望」と強調したが、事実上の応援メッセージのような内容だ。
 勘三郎や紀香、北島以外にも、「ねむの木学園」創設者の宮城まり子氏(80)建築家の安藤忠雄氏(65)教育再生会議担当室長の「ヤンキー先生義家弘介氏(35)登山家の野口健氏(33)選対本部長を務める初代内閣安全保障室長の佐々淳行氏(76)ら石原氏と親交のある著名人が登場。かつてない逆風にさらされる石原氏に「少しは反省してよね! だけどやっぱり石原さん!」と、呼び掛けるようなビラになっている。
 石原氏の選対関係者は「ご批判はあるかもしれないが有権者にいかに関心を持ってもらうかを考えた。なぜ、石原がもう1期やりたいと思っているのか、分かりやすく多くの有権者に伝えたい」と話した。
 ビラを見た吉田万三氏(59)は「ムードや雰囲気で乗り切ろうという姿勢が、ビラに出ている。彼は自分を大きく見せるために『誰々と親しい』とか、よく言っていますよね。ビラに性格も出ている」。黒川紀章氏(72)は「過去の人ばっかりだねえ〜。(建築家の安藤氏は)石原ができないことを言っているね。僕が当選したら使ってあげよう。彼(安藤氏)も落ち目だけど」と皮肉った。

 勘三郎も庶民の味方的なイメージを売っているんじゃなかったのかと思ったけれど、中村座を建てるなんて話にはこっちだと思っているんだろうか。江戸の文化を元湘南・不良小説家なんかに語って貰いたくなんてない。藤原紀香はタレントとしては随分リベラルだと思っていたけれど、結局なんも考えていないということか。北島康介のこのコメントが本当に本人のものなんだとしたら至極視野が狭いけれど、泳ぐ時にはそんな視野がよいのかも知れないけれど、こっちはそれじゃ困るのね。宮城まりこは歳を取っちゃったからわからなくなっちゃっているのかも知れないけれど、ねむの木学園の運営に関してだけだって石原路線とどこに接点があるというのだろうか。義家先生に至っては彼の原点を考えたらここでどうして石原に乗るということになるのか、全く理解を超えている。国歌処分をやっているのはいったい誰だと思っているんだろうか。なぁ〜にが「少しは反省してね!」だ。一杯一杯反省が必要だよ、君!

 急速に花を開き始めた桜はどんどん満開に向かって走り続けている。先輩からのお誘いを戴いて駒込六義園のしだれ桜を見にいく。いつもは閉まっている駅側の門が今日は開いていて、人の列ができている。どうやらそこにかかっている横断幕を見ると4月1日までこの門が開いていて、夜9時までライトアップされているらしい。大した列ではないけれど、前回、つつじがもう終わる頃に来た時は夕方入ったら、中で出会った人が5-6人だったので、こんな列を作る気分になれなくて店を冷やかしながら正門のしだれ桜の側に廻る。すると誰も列は作っていなかったので、すぐに入る。しかし、やっぱりしだれ桜の廻りにはほぼ50-60代の人たちが取り巻いている。三脚にカメラを乗せた人たちがライトアップを待って場所取りをしている。ちゃっちゃと写真を撮って中に進む。とてつもないほどの人が入っている。ところどころに桜の木があって5分程度の花をつけている。とても背の高い木があると思えば、それほど人が集まっていない桜の木もある。他の花も少しずつ色を添えていて、約束の時間にはそこを出てこの前も入った上海チキンで先輩と合流し、また様々な見慣れないけれど面白いお皿を注文。今日は川七というぬるっとした葉っぱを食べる。時間がなくて炒麺を食べ損なったのはちょっと未練だった。
 この時間になると駅側の入口は煉瓦の塀に沿って、そりゃもうとんでもないほどの長蛇の列。もう一度正門に廻ってみると、なんとこっちも向こうの方まで長蛇の列が並んでいる。ここで諦め、不忍通りを渡った角にある小粋な店の外のテーブルを占めて、ベルギービールを呑む。これが旨い!さんざっぱら喋り倒す。家に帰りながら友達の誕生日だったことを想い出し、浦霞禅をもって繰り込む。角の洒落たお米やさんがあいていたので、つまみを買おうかとはいると、なんとそこに働いていたのは高校の同クラスメイト!おぉ〜、なんということ!誕生日祝いに集まっている人たちでまたまた痛飲。桜が咲くといろいろなことが重なるのだ。