ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

1944年8月5日

 今から60年前、オーストラリア、NSW州、カウラ。
日本人捕虜収容所で日本兵が大規模な脱出を図った。無謀な行為であった証拠に多くの犠牲者が出た。しかし、現在のカウラに行くと、この収容所にいた日本人捕虜たち、そして警備についていて殺されたオーストラリア兵士たちの墓が作られ、60年間守られてきたものをみる事ができる。
「カウラ」という名前はこの史実を知る人たちにとっては日本とオーストラリアの間の特殊な繋がりを語る。この事件の背景には今の日本人にとっては多くの事を考えさせるものに満ちあふれている。ひとつには日本という国の不思議なほどの固有な価値観の存在と、そこから一歩も動かずに140年間過ごしてきた不思議さがある。
 本音としてはそんな事を思いもしなかったのに、建前として「死して虜囚の辱めを受けず」を煽る人間にふりまわされ、“多分俺一人くらいが一生懸命に本音を語らないで、こうしてイージーな態度をとっても体制には影響はないだろう”と唯々諾々とその方向に一票入れてみたら、気がついた時には到底敵わぬ敵に向かって貧弱な武器を手に本当に突撃してしまう。これはひとえに米軍に奇襲を掛けて戦争に突っ込んでいった日本を思い浮かべるだけではない。実に現在の日本の政治状況そのものではないだろうか。
 俺一人くらい、面倒な話に首を突っ込まなくたって、きっとそんな事が好きで好きでしょうがない、っていう奴らがどうにかする。おれは別に行かなくたって良い。ということで投票率はいつまでも上向かない。年金なんて俺一人が払わなくたってどうにかなる。税金なんて俺一人が逃げていたってどうにかなる。そして気がついてみると世の中とんでもない事になっている。それがこのカウラの大脱走事件がそのままである。つまり、わたしたちの感性というものはいつまで経ってもまったく変わっていないという事である。
どうしてオーストラリア人はカウラに日本人の墓地を造り、日本庭園を構えているのだろうか。オーストラリアの人たちは、敵対国の捕虜たちが勝手に興した事件で死んだにもかかわらず、丁寧に墓地にして供養してきた。なんでそんな事ができたのだろうか。もし、これが立場が逆だったとすると日本人はどうしただろうか。
 四国松山には日露戦争で捕虜になったロシア人たちの墓碑が98基残っているという記述から始まる才神時雄(さいかみときお)の「松山収容所」(中公新書 1969)は、普通の日本人が知らない日本に於ける捕虜の歴史的存在を取りあげている。彼自身がシベリア抑留帰還者である *1
 草の根の繋がりにどうしても本音の出せない日本企業社会と、それを察知できないのか、察知できても知らぬフリをしているのかオーストラリア市民たち。
 この点については実は別にどんな検証もしていないので、私の勝手な考えである。こうした草の根的交流については日本の企業は実にヘタックソである。それは仕方のない事である。「慈善事業でこの商売をやっているんじゃないんだ!」を切り札にここまで発展してきたのが日本経済なのである。
なんでか。カウラに収容されていた捕虜たちとまったく変わらないのだ。自分はこうしても良いんじゃないかと思うけれど、周りのみんながそうは思っていないらしいし、それが建前なんだから、そう表明しておこう。地域との繋がりよりも、家族との繋がりよりも、自分の健康よりも、仕事の上での人間関係が優先していた。本当にそんな生活が最も重要だと思っていたのだろうか。
それがやっぱり滅私奉公があって初めて日本が成り立つという信念だったのか。よく、団体競技では「All for one, One for all」という言葉が使われる。言葉だけを取りあげると「みんなはその中の一人のために存在し、一人の人間はそこにいるすべての人のためにある」という事になるのかも知れないけれど、人間はその一人の人間のために存在しているに過ぎないが、その他の人の犠牲の上に成り立ってはならないし、他の人のために一人の人間が犠牲になってはならないと思う。日本の企業は実際には「One for All」しか存在していなかった。「All for One」なんていってはみても、決してそんなこと本当に思ってはいなかった。言葉で「組織の歯車」なんていっては見ても、そんな事はないよ、と内心思っている人がたくさんいる。でも考えてみると、その人がある日急死しても誰も困らない。確かに葬儀だ、後片づけだと周りは忙殺される。だけれども確実にその代役は現れ、またそれまでと変わらぬルーティン・ワークが続く。
つまり、「One for All」は要求されるけれど、その代わりに「All for One」なんてものは実現されるわけがない。それは給与という形でけりがつく。今はどうだろう。
そして、そんな日本人の感性、企業的人間の感性を果たしてオーストラリアの人たちはわかってくれているのだろうか。そしてそれを飲み込んだ上でご一緒して頂けているのだろうか。
 このテーマは語りはじめると日豪の文化論となり、ラ・トローブ大学の杉本良夫教授あたりのコメントを求めたくなる分野だろう。
 私は駐在員としてシドニーに暮らしていた時期に「シドニー日本人会」という駐在者たちのための「日本人会」が主催したバスツアーに参加してカウラを訪問した。1996年の事である。オーストラリアに派遣されると決まった時に読んでいたいずれかの本の中からこの事件を知った。もちろんそれ以前はこの「カウラ」という街、そしてその事件についてはまったく聞いた事もなければ、考えた事もなかった。
 その時のイベント・タイトルは多分、カウラ慰霊祭と記念植樹ツアーだったと思う。日本人墓地で供養をし、桜並木に記念植樹をするというものである。シドニー市内に集合してバスに乗り、カウラを目指す。シドニーに事務所を構える一流企業の支店長クラスが役員を務める日本人会のイベントではあるが、役員であるがゆえに参加している人たち以外では非常に例外的な参加メンバーであったという記憶である。日本人学校の社会科の先生が参加しておられた事は記憶に残る。
 途中でブルーマウンテンで休憩を取り、カウラの駅でバスを降りる。現地では永住の日系人の方たちの日本人クラブ会員と一緒に汽車に乗り換える。なんでわざわざ、と思ったら、かつて走っていた汽車をこの日のために復活させたというもので、汽車の中には地元のボランティアの方たちがこのイベントのために日本人受け入れに東奔西走しておられた。そんなに大きくないカウラの街ではその晩町長をはじめ関係者の人たちとともに、タウンホールでディナー・パーティが盛大に催された。そこでの出し物の中には日本人の日本舞踊まであった。
 わたしたちと同じテーブルに着いたオーストラリア人の二組の夫婦はほぼわたしたちと同じような年齢の様子だったが、なぜここにいてどこの人なのか、とても興味深いものがあった。話をしていくうちにわかったのは、翌日のカウラ日本庭園におけるフェスティバルで野点の茶会でお茶を点てるのだという。シドニーで日本人についてティー・セレモニーを習っているのだという。驚いた。で、翌日行ってみると、この二人の奥様はちょっと大きさが足りない、という感じの着物ではあったがきちんと着て、お茶を出してくださった。その健気さがとても嬉しかった。
 今朝08時のNHK総合テレビのニュースではカウラ事件60周年の記念供養がカウラの日本人墓地で執り行われた事を報じていた。カウラ会の高原希國さんが出席していた様子が映し出されていた。

*1:なぜ、シベリヤ強制労働被害者と表現しなかったのだろうか。多分戦勝国であるソ連に気を遣ったのだろうか