ほぼ足りてまだ欲 その先

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そうした差別用語

 「支那人」「支那そば」という呼称は蔑称であると、私は信じている。もちろんかつての中国の呼称として使われていた「支那」という地域呼称そのものは差別用語でも侮蔑用語でもなんでもないわけで、その時代には全く問題はなかったことは事実である。しかし、それをこの現代の日本に持ち込んできて「だからこれは差別用語でもなんでもない、騒ぐ奴が悪い」という表現をするのは明らかに間違っている。これは「そうした思想はおまえが左翼だからだ!」とか「こうして日本の正しい歴史を守るのだ」という類の考え方とは根本的に違う。その時点から今に至る間にその言葉にとっての大きな転換期が明らかに存在しており、その時点で意識していたあるいは意識していなかったにかかわらずそうした意味を含むことに至ったことは認識しなくてはならないのである。そこを勝手にすっ飛ばすのは誰が見てもルール違反である。
 たとえば、歴史学者の網野義彦が書いているが*1、山形・秋田での「らく」という呼称、加賀・能登越中での「藤内」という呼称が、その地域では正に明らかに被差別民に対する差別用語であるが一歩隣の地域に出れば、それはなんの意味も持たない。当時はそれはそれで良かった。なぜならばテレビを中心とする情報がそう簡単には隣の地域に入りこむことがなかったからである。しかし、今やもうそんなことを云える時代ではないし、実際どんどん固有の言語は普遍の言語へと変身を続けていく。じゃあそれは一体いつ、どのような手法によってそれが行われてきたのか、ということは言葉の持つ意味の重さになんの関係もない。今、ここで、どのような意味を持つものとなってしまっているのか、という点が重要なのである。だから、極端なことをいえば、ひとりでトイレに入っていて、どんなに差別用語を連呼しようとなんの関係もないし、影響も与えない。しかし、パブリックに公開することを前提に書かれる場合にはもはやそれは関係性が存在し、影響を与え続ける。

*1:「日本中世における差別の諸相」p.34別冊歴史読本87「歴史の中のサンカ・被差別民 謎と真相」新人物往来社 2004