ほぼ足りてまだ欲 その先

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子どもの海外旅行→テレビジョン子育て論

 反論があることを承知で書いちゃう。かつて外国で暮らしていた頃に出張で日本とその国を何度か往復することがあった。バブルがはじけてからは会社も出張費をけちっていたから仕事でもビジネスという名前が昔は付いていたクラスに乗ることができなくなり、情けなくエコノミーに乗っていたものだった。たまにマイレージがたまると運が良ければあげてもらったりして。エコノミーにいると家族連れに良く遭遇する。幼い子ども連れで、それもどう見ても遊びに行く家族に。若い親御さんはいかにも旅慣れているらしいが、可哀相なのは連れて行かれている子どもであり、そのそばに座る羽目になった乗客である。子どもは周りのことなんて考えないし、親は自分が眠いものだから子どもがひとりで起きて何をしていようと知ったこっちゃない、というわけでひとりぽつねんと動いていたりする。この辺はどこにいようと子どもは同じ。
 日本人観光客が良くやってくる外国でたまたまそうした家族連れと一緒になったことがある。小学生中学年とおぼしき子ども二人はバスの中でずっとテレビゲームをしていた。ま、子どもなんてそうしたもの。病院の小児科病棟でボランティアが遊び相手にいってもゲームの相手をする羽目になるという話を聞いたことがある位だ。当時、民間の語学学校に韓国から小学生とおぼしき少年が勉強に来ているのにであった。お金持ちの子息なんだろうが、出かけてきていることで親は安心、満足しているらしかった。本人は目先の変わったところに来ているだけで退屈しないだけ良かったし、(何しろ金の心配もなく)親の目から離れていることに満足しているようだった。語学の勉強は別にして。
 小学校年齢、中学生年齢でグループで出かけるホームステイという企画が目白押しに存在する。決して安くはないけれど。学校が音頭をとるものもある。これは安心感を親に与える。決して安くはない。当たり前だ、旅行代理店が学校に企画を売るのだから。子どもの時から国際的感覚を養うことは今後のグローバル化の時代には徹底的に必要だ、という売り込み文句に親は弱い。ホームステイを受け入れる側からいえば、ほんのちょっとの期間受け入れるとちょっとした収入になるということはもちろん基本にはある。多くの場合はキリスト教的ボランティア思想が大きな要因となっているから、よほどのことがない限り問題は割と少ない。お互いの文化を知らないがために起こる誤解や思いこみはそれが氷解した時にむしろ笑って許し合える。そうはいかないのは人間としての根本的な部分だろう。そして親は子どもを「千尋の谷へ落とす」積もりでそんな旅にだし、「うちの子どもはグローバル化に対応して行かれる」と思い、そんな教育を施すことができる自分を「なんて素晴らしい親だろうか」と感心しちゃう。実は金のかかる単なる遊びであり、子どもは時によっては負担になっていたりする。どう考えても子どもの観光旅行でしかないし、その地域のバックグラウンドも問題点も分かっていない段階でそんな短期間の滞在に出かけることの意味はよく考えたら分かりそうなものである。
 「うちは、小5の時をかわきりに(オーストラリア)、小6韓国、中1シンガポール、中2タイ・マレーシア、そして16歳でオーストラリアと出かけています」とこれ見よがしにネット上で書き込む親だっている位である。しかも、そのネット上でその子どもが出かける先の情報をくださいといいながら実は詳細を明かすことがない、という状況で、ただ単に誰かにこんな素晴らしい親である自分を知って欲しいという位なものである。いつからこうなったんだろう。電車の中で、飛行機の中で、道路上で子どものいいなりになり、放任そのものである親たちは自分たちが顰蹙を買っていることを知らない。なぜなら誰もそんなことを云ってくれないからである。周りはこんな子どもの行動をしっかりと見ていてもそれに口を出しても多分分かってはくれないどころか、逆ねじを喰らわせられるのが怖い。そうして教養のかけらも持たない親がその生き写しの子どもを再生産する。
 では、なぜそんなことになったのか。それは団塊の世代が子の教育に失敗したからである。高度経済成長が大きくけつまずいた時にほぼ学校を終え、後はバブルまで常に右肩上がりの経済状況の中で家庭を構え、子どもを作り教育して(しないで?)来てしまった。必ず今仕込んでおけばこの先で必ず大きくなって返ってくるという社会通念で生き、家庭を引っ張ってきた。この団塊の世代は、彼らの親の代が戦争を挟んで大きく変わったこの国の常識に振り回されてきたこと、影響されてきたことも事実である。とにかくメイン・コースに乗っかれば勝ちだったのだからそれしか分からなかった。無条件に米国文化にさらされたのもこの世代である。しかも、そのほとんどの情報源はテレビジョンで持ち込まれるドラマの類だった。つまり、この世代はテレビジョンに育てられたといっても良い位である。
 こうして文部科学省がたかだか5年間位で「総合学習」を放り出すような教育ではなくて、常に刺激を与え続けるテレビジョンは大きな影響を残すのである。しかし、そんなことを考えてテレビジョン番組は創られてはいないし、そんなマインドを抱えてつくられたであろうと思われる番組は少ない。民放はその最たるものであるし、NHKはそのスタンスに疑問が生まれてきている。所詮、テレビジョンなんてそんなもんだと分かっている人は何人もいるのだけれど、そんなことの分かっていない人はその数の何百倍もいることも事実である。