ほぼ足りてまだ欲 その先

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人生に予定表

 昨日の朝日新聞夕刊に斉藤貴男の写真が載っていた。20年以上前に見たっきりだけれども、全然変わっていない。若いままである。こういう人っているんだなぁと感心した。
 彼が居酒屋チェーンの経営者の言葉を引いていたが、「自分の将来に予定表をつくっておけ」という言葉を初めて聞いてから数年たっている。その時も思ったのだけれど、自分の将来に予定表をつくると、つくらないでは大きく異なるんだろうなぁ。私はこれまでの人生の中で予定表をなにひとつつくらず、行き当たりばったりで暮らしてきてしまったことを今更ながら後悔している。企業に入ってから多分そのうちに自らの突っ込むポイントをきっと見つけ得るだろうと思っていたが、結局見つけたのは常に駒として振られる自分の姿でしかなかった。しかもそれをわが意として認めてしまうことによって正当化しようという姑息な姿であった。「私はどこでも私を必要とするところに行きますよ」なんていっていたけれど、当時の経営者からすればそんな深みのない姿は信頼するに足らなかったんだろう。
 しかし、逆から見ると(ここに至っても居直ろうとしているのかも知れないんだけれど)、こんなずるい姿はあるまいなぁ。何があっても自分で責任取ろうとしていないものな。と、同時に気楽な人生といえないこともないなぁ。無責任の極地といっても良いかもしれない。あ、だから「なかなか実を結ばない」のであるな。
 「人生に責任をとる」ってのはどういうことなのか。どういうことをしなくてはならないのか。どんなことになっちゃうのか。この認識が「ありとキリギリス」を正当化する考えの基礎か。だとすると、人生に予定を立てない奴は高齢化してケアを必要としたとしても、放り出されても仕方がないじゃんということになるのか。ならば、先の居酒屋の経営者が言う「人生に予定表」はずっと昔からみんな知っていたことで、たまたまやらない奴、つまりキリギリスという存在は「羨ましい」のだけれどその分だけそんな結果を背負い込んで「ざまぁみろ」なのだろうか。
 何らかの形で人の役に立てる人生を送りたい、と良く若者がいう。役に立つというのがどういうことなのかということをまず定義しなくちゃならんなぁとは思うんだけれど、親の立場に立っていわせてもらえればこどもが元気でいてくれたら(イヤ必ずしも元気でなくても良いんだけれど、元気でいてくれたら余計に)もうそれだけで充分役に立ってくれているといって良い。ということはそうして存在してくれているだけでもうとっくに充分に役に立っているんだぜ、といいたい。