ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

ペット可 

 この集合住宅はペット飼っても良いですよ、ただし大きさはこれくらいまで、ということになっている。これはもう嬉しかった。そのために引っ越したといっても良い。以前住んでいた集合住宅はペット不可だった。しかし、息子が中学二年くらいの頃に、私が励んでいた活動の拠点のお寺でバザーをやっていたら、知らないうちに生まれたばかりの子猫をボール紙の箱に4匹入れておいていった姑息な奴がいた。少年たちの前で知らん顔はできないから、抱えて、誰か貰ってくれる人はいませんかぁ〜!とバザー会場を歩き回った。
 いろいろな人が、一匹ずつ持っていってくれたんだけれど、とうとう一匹残った。しょうがない、うちに持って帰った。「どうしようかなぁ・・・」と。ところがやっぱり生まれたばかりで激動の環境を乗り越えられなかったのか、この子猫は二日で死んでしまう。結果として飼わなくて済むことになったのだけれども、動物の死を目の前にしてしまった第一子は、いたく嘆いた。彼はその頃とても繊細な状態になっていたこともある。結果、二人でその死んだ子猫を群馬の山に埋めに行くことになった。(これ、前にも書いたかも知れない・・・)。
 問題はその後である。二人の子どもはすっかり意気消沈。わが家はすっかりくらくなる。第一子はますます繊細に。同じペット禁止の集合住宅に暮らしていたウナギやさんが猫を貰ったという話を聞く。なら、まだそこにはないのかと聞いて貰うと、いるよと。そこで姉弟にあたる猫を頂戴ということになった。つまり、ペット禁止の集合住宅で密かに飼うことに決めたのである。覚悟を決めた。ルール違反なんだ。そうなんだけれども、決めた。
 管理組合の役員会に行ってみると、気がついたのは6人の中でペットを飼っていないのは二人しかいない。それならと飼っていた。とても気が重い。この猫はこの家庭の中でとても役に立った。というのはみんなをつなぐ役割をしているのである。「猫が構成員をつなぐ役を担っている家庭」というなんともどう考えたらよいのか分からないものである。
 だから、ペット可の集合住宅に引っ越してきた時はもう、それはそれはホッとしたのである。
 最近お隣さんの若い犬がやたら夜中にちょっとほえる時がある。うちでは、誰がどうしているのか分かっているし、「鳴いているな」と云うことはわかるけれど、別になんとも思わない。ところがその上の家からペットの会あてに「うるさい!俺は犬が嫌い」と手紙が来た。「嫌い」といわれてしまうともうとりつく島もない。
 昔の長屋であったら、何がうるさい、これがうるさいという前に、隣の家族構成が分かっているどころじゃなくて、田舎のじいちゃんの具合が最近どうかくらいまで分かっているくらいだから、犬の具合なんてもちろん分かっている。
 確かに気になる。どこからするのか分からない音は気になる。だけれどもあそこのうちのあの子がこうしている音だな、と分かるか分からないかの違いは大きい。
 そこをどうつなげるか、がポイントなんだろうなぁ。どうしてもそのへんを引き出していくのにはある種の才能が必要のようである。