ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

肉体労働

今日は仕事に行かないはずの金曜日なんだけれど、これから卒業式の準備に出かける。今年の三月は昨年よりも数段忙しい。なんでこんなことになるのだろうか。
来週はようやく5-6日間の春休みになるはずだったのだけれど、週末にイベントがあって、その準備をやることになったので、お休み返上することになった。なんかもう一つインセンティブが欲しい。なにかを目標にやるというそうした推進力がこの仕事にはない。これはやっぱり時給アルバイトだからなんだろうか。だから年功序列給というのはその部分では意味があったのかも知れないと思うのである。あ、遅れそう。
 最後は袋詰めの肉体労働に専念する。240袋を最後に5人で中身チェックをする。人生は粘りと根性だと思い知る。目眩がするくらい疲れた。
 中国から来ている留学生のご両親がこの機会にと娘が7年間勉強してきた学校を見に来られていた。とても微笑ましかった。このご両親の参列は確かに意味があるなぁと思うのだけれども、それではなんで普通の日本人学生のご両親がたくさん参列することに抵抗を感じるのだろうか。大学生、大学院生の親たちがたくさんその卒業式に参列するのを見ていると、「嘆かわしい」というのに、留学生の親が参列するのを嘆くことをしないのは自分でも論理的ではないなぁと思ってしまう。
 4時頃に仕事を終えたので、母校の図書館で捜し物をする。そのうちに一昨年に出版された「アメリカに渡った戦争花嫁」(安富成良・スタウト梅津和子著、明石書店)を見つける。「戦争花嫁」ものであれば直ちに入手して読むはずなのだけれど、いろいろあってこの本は未入手であった。やっぱり読んでおこうという気になった。
 この図書館では卒業生に一度にわずか三冊であるが貸し出してくれる。ところがそのためのカードは有効期間はたった一年間で、毎年4月にならないと更新してくれない。だからというわけか借り出した本は3月一杯に返せと云う。たった一週間の貸出期間である。バカにしている。本当にこの学校の様々なシステムは官僚的そのもの。
 卒業生に対して一年間しか有効でないカードを発行し、その有効期間に拘泥する理由は定かではない。そのためにわざわざ学校の名前の付いたクレジット・カードまで作った。そうすれば本を貸すというからである。むしろ学校側は温情的に貸し出してあげるけれど、その代わり一年ごとに面倒な作業をしなさいよ、これは温情なんだから、とでも云っていそうである。
 院生が仲間の勉強会を開くために休み期間中の教室を借りようとしたら、出席する学生全員の学生番号と名前を届け出ろと云われたそうだ。一体全体なんの理由があるのか。その理由は多分学外の学生を集めてかつてのセクト的活動が行われることを危惧していると云うことなのではないかと考えてしまう。
 この辺がわたしが考える「大学とは一体誰のものか」という疑問のひとつの要因である。学生たちは何をするのか分からないからできるだけ用心する、という基本方針の下になにもかもができあがっているかのように見える。ひとつの例外を作ってしまったらあとから何が起こるか分からないから絶対に例外なんて作らないんだ、という硬い意思が原動力となっているかのようだ。スケールの小さい限定された職場の集合体に過ぎないのかも知れない。