ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

なんだったら

 文化放送大竹まことの「少年ラジオ、明日にかける話」をpodcastで何週間分もいっぺんに聴く。2-3週間前に登場した嵐山光三郎は私にとっては久しぶりだ。そういえば20年ほど昔、私が働いていた会社が当時流行ったCI (Corporate Identity)を実施した時のお祭りに、彼が来て話していったことを想い出した。
 一頃は随分テレビにも出ていたような記憶があるが、最近はとんとお目に掛からない。彼独特の言い回しの、あっても困らないけれど、なくても困らないといったジャンルの話を読むという時間を私が持とうとしていないせいもあるかもしれない。例えば椎名誠にしたって、私は読まなきゃ困るわけでもない。いや、そんなことを云ったら実際の話、私が読まないと生きていかれない、というものは厳密には一切存在しないのだ。
 有り体に申し上げてみたら日がな一日蒲団の上で、あっちにごろごろ、こっちにごろごろして過ごしたって私は良いわけである。それなのに、今の机の上にはアジア太平洋戦争を書いてある本や、鶴見俊輔が書いた本が積み上がっていたりする。そこには椎名誠も、嵐山幸三郎もみることはない。それなのに「東京人」や「COYOTE」なんかはきちんと書棚に並べられていたりする。そうした雑誌の中には泉麻人なんかが訳知り顔に東京の街を書いていたりするんだ。じゃ、なんでこんなことをいって嵐山光三郎を素直に手にしないのか。それは私より5歳上の嵐山光三郎が書いていること、あるいは「こういうのは嫌だけれど、あぁいうのは良い」といっていることなんかが私の感覚に妙にぴったりしていたりして、なんだか私が彼の真似をしているように見えてしまうことが嫌だからである。それを誰かに、きっちり指摘されてしまったりしても、自分が読んでいなければよいわけで、それなら潔白である。しかし、今日は彼のそんな話をpodcastで聴いてしまったのでちょっと後悔なんである。
 「絵手紙を送ってきた奴に返事は書かない」と彼が云った。大竹が「武者小路実篤じゃ、あるまいしねぇ〜!」と云った。そうなんだ、南瓜だったりしちゃうのだね、あれって。あるいはぼよぼよの茄子だったりして。ま、実のところを云うとそんな絵を私が描けないのではあるけれど。