ほぼ足りてまだ欲 その先

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公僕のチーフ

 富田元宮内庁長官のメモが出たことについて訊かれた彼は、「それぞれ心の問題ですから。行ってもよし、行かなくてもよし。誰でも自由ですから」と答えたそうである。もちろん、誰でも自由なのだ。ただし、それは一市民としてである。彼はいつも自分の立場がなんなのか、奉られているある人の立場がなんなのか、その人たちがどんなことをしてくれた人なのか、どんな人たちと一緒に遇されているのか、という点を全てまっさらにして語ってしまう。だから一見当たり前のように聞こえ、気持ちよさそうなんだけれど、よく考えてみると思慮の足りない発言であったりする。私たちの文化は、よくよく考え、その先を読み、相手を慮ることによって謙虚に解決を見るという形の良さ、すがすがしさというものがあったような気がする。テレビ朝日に出てこられる神田さんのお話を聞いていると美しいと思う。
 外国で仕事をすると『相手の立場を慮り』黙っていることによって相手が察するところを期待するというやり方なんて全く通用しない。「いやいや、ここは我慢だよ、あとでここで降りたことで相手に貸しを作れるんだから」なんてことがこれっぱかりも機能しないことを何十年も前に知った時には、私たちの文化では国際的には通用しないんだ、と頭を切り換えたものであった。しかし、よく考えてみるとこうしたことが通用するという文化は高度なものだといっても良い。つまり、立場をわきまえるという技術が必要だからである。これはへりくだるということではなくて、自分を見つめることが必要だからである。これはとても面倒くさい。私は途中から自分の考えを否定して切り換えなくてはならなかったから、どんどんそっち側に来た。しかし、こうした面倒くさい行為をやっていける時間が持てなくなったのが、アジア太平洋戦争以降のことであるだろう。公僕のチーフはやはり戦後の育ちそのものであるのだから仕方がないのだろうか。
 彼にしても福井のおっさんにしても、自分を見つめるという技術が欠落しているのだから、もっと謙虚になってみた方がよいだろう。そこいくと速水優氏の洞察力はやはりその器にふさわしい方だったのだろう。政治家には元々持ち得ないのだろうか。
 さて、どうして福田氏はレースから降りようとしているのだろうか。何か匂わないだろうか。
 今日はドミニカ移民に対する首相の謝罪がなされる予定である。なんというのだろうか。「帰るのも、残るのも、皆さんの自由なんですよ」なんてことを云っちゃって顰蹙を買ったりするのだろうか。