ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

誰だっけなぁ

 昨日夜帰ってくる時に乗り換えた電車で、乗るやいなや目の前にいた若い女性に、何か親しみを感じた。どこかで見た顔である。それも結構前に会っている。それも結構よく見た顔である。全然想い出せない・・・。誰なんだろう・・・。しばらく経って想い出し、一人で思わず笑いそうだった。彼女が似ていたのは「オードリ・ヘップバーン」だったのである。そりゃ、結構前によく見た顔に違いない。親しみを感じるわけだ。映画で随分見たし、雑誌上でもよく見たもの。
 で、考えた。オードリ・ヘップバーンってのは美人顔なのかって。もちろんその女性を見ながらである。目がでかくて、鼻筋は通っているわけだから、美人の要素はあるわけだ。ところがなんか貧乏くささを感じさせるのである。とってつけたような感じとでもいうのだろうか。いや、若い時のすさんだ生活が顔に表れ掛かっているんだけれど、もともとの造りの良さで隠している、でも、ちょっとなんかあるとお里が知れちゃう・・・そうか、お里が知れ掛かった、とでも云えばいいのかも知れないなぁ。こんなことを書くときっとどこかで後ろからファンに足蹴にされるかも知れないな。
 これって明確に差別発言じゃないかなぁ。私にはこうした発想がやっぱりどこかに残っているんだろうなぁ。これが多分「いじめ」という行為に通じているんじゃないかと思う。この位のことをいってもなんちゅうこっちゃないんだ、という自分の思いこみが自分はそうは思っていないけれど、それをぶつけられた側はとても辛い思いに陥ってしまったりする、ということなんじゃないだろうか。それでも周りにそんなこといってもどうにもなるわけはないと思っているから、そこで笑ってしまったりする。だから、「あの子は気にしてなかったよ」的な発言が周りに聞こえてくる。「障害」という言葉を使って欲しくないなぁ、という人は「あんたは害なんだよ」といわれているようで嫌だから、という。だけれども、言葉なんて言い替えたってその底にあるいう側の気持ちが変わらなくては意味がないという。そんな言葉狩りみたいなことをしたってなんの前進にもならないという。だけれども、”嫌だなぁ”と思っている人がいるんだとするのならばその人に対して対処することの方が先決ではないのだろうか。「いじめられている」という認識を持つ人に「そんなのいじめじゃないよ」といってなにかの救いになるのかといったら、多分それはなんの救いにもならない。
 「いや、もしそんなことが本当にあったのだとしたらそれはいじめですね、といったまでです」という校長の発言はとても無責任だと思う。彼らの論理は、もしそんなことがなかったとしたらそれは魔女狩りである、なんていう論理が底にあるんだろう。やられちゃっている人が幾らいったってその視点で見ていない人間には決して見えない。否定しようとしている人間は否定する。私自身がそうした差別的感覚をも保持していることに気付くと唖然とするなぁ。いじめみたいなことはいつの時代にも誰にもあったけれど、それで負けちゃう奴が弱いんだよ、という人もいる。それは強い奴だけが云える論理だ。それは排除の論理に直結する。