ほぼ足りてまだ欲 その先

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横浜都市発展記念館

 先日の「ちい散歩」で登場したこの記念館で4月15日まで開催されている、広瀬始親が撮影した写真を特集した企画展示「横浜ノスタルジア 昭和30年頃の街角」を見にいく。私が横浜の小学校に入学したのが昭和29年なのでまさに私にとってのノスタルジアであることは間違いがなく、当時の私の記憶がどれほど正しいものかも知りたいところであった。みなとみらい線の「日本大通り」(昔私の友人はこれを「日本大学の通り」だと思ったといった)で降りる。地下鉄の3番出口のエスカレーターを上がると、そこがもうこの記念館の入り口だった。全く外に出ないで、そのままはいることができた。500円の入場料を出し、3階の会場に行く。受付の女性に切符を切って頂くと隣に座っておいでの高齢の男性がわざわざ立ち上がって「ありがとうございます」と仰る。「広瀬さんですか?」とお伺いをするとまさにその通りで、驚いた。1915年甲府の生まれと云うから今年でなんと92歳と云うが、全くかくしゃくたるもので、プロフィールを見ると生糸の貿易会社をやっていたと云うし、昭和30年頃にパチパチと写真を撮り続けていたというのだから実にあの頃のいわゆる「お金持ち」だったんだろうなぁ。最近の格差の話が出ると必ず思うのはあの頃の「お金持ち」というものは下々とははっきりとかけ離れた存在だったけれど、そうでない人たちが圧倒的な量だったのではないかというのが実感だった。なにしろ車が走ってきたらそれはどこの誰のうちの車だというのが判別できたという想い出なのである。
 今回の写真展で私の記憶との差の大きさで驚いたのはなんといっても伊勢佐木町にあった不二家のビルである。私たちは桜木町から親に手を取られて、左右接収されて塀や、バラ線で区切られた道を通り、吉田橋で大岡川を渡って伊勢佐木町に行った。伊勢佐木町は当時横浜で最も賑やかな町で、まわりは接収された地域ばかりだったけれど、その中には飛行機用の滑走路もあった。艀が川を埋めんばかりに浮かんでおり、その舟で暮らしている人たちが七輪で魚を焼いていた。通りには歩道に向かって露天の店がキャンバス地のテントのようなものを張ってものを売っていた。伊勢佐木町は親不孝通りなんて呼び方もされていたようだ。私たちのお目当ては野沢屋というデパートのソフトクリームである。今食べたらどんな気持ちがしたのかわからないけれど、当時はもう天国にでも登るほどの感動であった。その野沢屋の反対側に連合軍に接収されていた不二家があったのだ。その二階は上から下までガラス張りで、そのガラスの内側には白いカバーを掛けた、あたかもマッカーサーが深々と座って写真でも撮らせるような椅子が外に向かって横に並べてある。そこへ新聞をばさっと拡げた連合軍将校が足を組んでいるのである。まぁ〜、その格好の良いこと。そして、その不二家の二階がとてつもなく高く思えていたのに、広瀬の写真を見るとやけに低く見えるのである。私が大きくなったと云うことなんだ、と家人は云うけれど、もう既に縮み始めていますから。
 坊ちゃん刈りの頭をした子どもが積んだ材木の影に身を潜めて向こうを狙って手にしているのは針金で作った輪ゴムを撃つ鉄砲だ。駄菓子屋では火薬を点々と巻いたテープを打って「パン、パン」と音のする鉄砲を売っていた。今聞いてみればきっとなんとも迫力のないものだったろうに、当時は画期的なものですぐに近所の悪ガキの間に浸透したものだ。展示してあった写真の中に駐留軍のバス停が映ったものがあった。当時の日本の丸いバス停と同じサインだけれども英語で書いてあった。
 ♪ひゃあくねぇ〜ん、ひゃあくねぇ〜ん、開いてひゃあくね〜ん、みなとぉ〜横浜ぁ〜、あさぁがくるぅ〜、と唄われた開港百年記念のイベントが開かれたのは1958年のことだったのがわかった。道理で私はこのイベントを全く覚えていない。この年私は横浜を離れて静岡の三保半島に暮らしていた。横浜生まれとしては甚だ残念なことだけれども、その代わりに生涯忘れられない素晴らしい環境で暮らしていたのだから、恵まれすぎだと思う。
 今回の写真の中には三渓園の下の海で潮干狩りを愉しむ子どもたちを写したものがある。なんということのない半ズボンで海に立ち入ってごそごそやっている子どもの向こうの丘の上に三渓園の塔が見えているというものである。私たちも父の職場の人たちで遊びに行った記憶がある。当時は良くそうした職場のリクリエーションが行われていたし、みんなもそんなにやることもなかったのか、マメに参加したのだろうと思う。あそこの海岸はそんな具合だから貝殻が結構散乱していて、裸足で海にはいると足の裏を切ったものだった。それで三渓園の先の間門の小学校に夏休みに臨海学校といって通った(当時の市電が5番だったことも今度の写真展で判明)時には、なんと足袋を履いて泳いでいた記憶がある。当時の運動会では裏にゴムを引いた足袋を履いて走るのが徒競走の常識だった、なんて今や誰も信じないだろうなぁ。
 今回の展示は3階でのいわゆる企画展示で、常設展示は2階と4階にある。そこに展示されていた時々の地図を次々に見ていて東横線の横浜と反町の間にあった「神奈川」駅は1929年発行の「横浜都市計画地域図」(明報堂、2万5千分の一)には見ることができない。そしてこの時は現在の京浜急行青木橋の神奈川が終点である。しかし、1935年発行の「最新実測番地入新大横浜市全図」(日本地理附研究所 2万5千分の一)ではすでに標記されているのでこの間の10年に設置されていたのがわかる。そういえば東横線みなとみらい線への乗り入れのために東白楽と反町との間から地下に潜る。反町と横浜の間にあったトンネルもいまや無用の長物となったわけだけれどもこれから先何になるのか、工事中である。
 横浜都市発展記念館を裏庭に出ると、そこから見えたのは今でも同じ場所で営業をしている横浜の人で知らない人はないと極言しても良いかも知れないレストラン「かをり」があり、この建物がかつての1929(昭和4)年に建てられた横浜市外電話局だったことがわかった。この角は市電が交差していたところで、角にはポイントを切り換えるための塔屋が立っていた。それにしてもこの界隈は全く変わってしまい、ぽんとここに連れてこられたらどこにいるのか全くわからないだろう。日本郵船の大きな建物のおどろおどろしかったことも懐かしい。
 帰り際に隣の建物をよく見ると、放送ライブラリーの看板。横浜に関係したものに限っているのかどうかわからないけれど、ラジオ・テレビのかつてのコマーシャルや番組を試聴することができるのだそうだ。この建物の中には日本新聞博物館もあるのだそうで、来るのにお金はかかるけれど、一度このあたりをじっくりと歩いてみるのは良さそうだ。