ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

根津権現

 上野駅東側、昭和通りを渡ったところに台東区役所があり、そこから台東区が運営しているコミュニティ・バス、「めぐりん」の東西めぐりんと南めぐりんが走っている。めぐりんのなかでも最後に開設されたその「東西めぐりん」に乗ると100円で「千駄木駅前」バス停で降りると根津の権現さんまでは500m程だろうか。尤もこっちから入ると裏から入ったことになるのだとはあとで知ることになる。道理で、本殿に来るまでにくねくねしているわけだ。
 途中で「東西めぐりん」が上野のお山の国立博物館の前に来ると門の前にテントが張ってあって、そこに長蛇の列である。何かと思ったら「レオナルド・ダヴィンチ展」である。あそこは10時にならないと開場にならないらしい。神社が9時から開けているというのに、国家公務員は10時にならないと開けないのは甚だ怠慢。そんなことだから再就職をみんながいい顔しないんじゃないのか、と朝から憤慨。あぁ、実に「小言幸兵衛」そのものである。
 ところで、今の今まで私は根津権現に来たことがない。そもそもだいたい(そんなに構えた話じゃないが)いわゆる谷根千と云われる地域に土地勘がない。この辺に足を踏み入れ始めたのはこの4-5年に過ぎないだろう。この地域はこれまでバスに乗って通りすぎる地域だった。特に文京区側にはなじみがない。千石の街並みを見にいったのだって大変に珍しく、駒込六義園に足を踏み入れたのも、王子近くに住んでおられる先輩がお誘い下さったからに他ならない。生来の出不精はこうして周囲にいろいろ意味のあるものがありながらそこに足を運ぼうとしない。なんともったいないことだろうかというのが結論だ。
 どうもこんな上天気の金曜日の朝っからそんなところに足を運ぶのは第一線を退いた世代が中心なのに決まっているわけで、時間に余裕があったとしても血湧き肉の踊るヤング(良い字面だ)がこんなところにお越しになるわけがない。だから、実に来客の世代は高く、巣鴨のとげ抜き地蔵もかくや、と思われる具合である。とにかくわれわれがその中にとけ込む世代であることは云うまでもない。
 つつじ園に入れてもらうには「神苑整備事業ご寄進として200円」をお支払いする必要がある。引率者のいる小学生は無料だそうだ。
 そして、ここの名物といえば今を盛りと咲き誇るつつじのお山である。昨日ネットを探っていたら一昨日に権現さまでとったつつじの写真をアップしている方がおられて、それがまさに満開そのものであった。昨年はちょっと早めの躑躅(つつじ)*1を郊外に観にいった。一昨年は雨の中箱根につつじを見にいった。今年は遂に根津の権現さまを愛でにやってきたというわけである。ここのつつじは箱根の山のホテルの庭の株に比べれば一株が大きくはない。あっちのは人間4人ほどかからないと抱えられそうもないが、ここのはせいぜい二人だ。しかし、バラエティに富んでいて、繊細で、色が良いし花が密集している。そしてそんな状況だからカメラを構えた方々が群がるようにしているのだ。はいはい、かくいう私めもその一人。しかし、今の悠々自適世代のカメラは相当なものである。デジカメ一眼レフに長い玉をつけたおじ(い)さんの放列である。中にはそんなものを構えたおば(あ)さんだって珍しくない。あぁいう方々はみなさんあれを自宅でパソコンで処理されるのだろうから、そうして考えると一般消費の相当な部分を支えておられるわけだろう。
 よく知らなかったのだけれども、根津権現は公式サイトによると「今から千九百年余の昔、日本武尊千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間には太田道灌が社殿を奉建」としてある。昔っからこの辺にいらしたわけで、そんじょそこらの奴がどうひっくり返ったって偉そうなことはいえないのだ。お祀りしてあるのは須佐之男命や大国主命だったりするわけだけれども、あの菅原のみっちゃんも一緒にお祀りしてあるんだそうだ。亀戸も、湯島も、そしてこの根津までもがみんなしてみっちゃんを持ち上げると云うことは、奴は相当な手練れのものと見える。
 つつじを堪能し、神社をほぼ見て回り、不忍通りを上野方面に行き根津から千代田線に乗る。日比谷で降りA-9の出口を出ると目の前にまだ工事中のペニンシュラホテルである。
 マリオンに向かう。どこかで今公開中の「The Holiday」という映画にコッツウォルズの風景が出てくるんだという話を聞いていたので、どんな具合に見えるのかその映画を見ようと云うわけである。切符を買ってから昼飯にする。「柿安」の中華バフェ・ランチがあるというので(例の住所が存在しないという)高速道路の下のINSへ。どうもバフェ・ランチという奴は写真映りが良くない。少しずつの料理を一枚の皿にこれでもかともってしまうからである。多分わが家がとても追求できていない、いわゆる美的感覚を涵養できている家庭だったらば決してこんな食事はするまいね、という類だといっても良いか。リゾートの朝ご飯、あるいはビジネスホテルの朝ご飯で慣れているこちとらとしては全く違和感がない。しかし、この辺のこうしたランチに行くと間違いなく男は例外的な数しかいない。私も一人ではなかなか入れない。連れがいるから初めて入ることができる。至って気弱なのである。
 映画は大変にたわいのないストーリーで、鼻持ちならないくらいにスノッビーな話なのだけれど、英国側の景色は確かに鄙(ひな)びていてなかなか良い。けれども、コッツウォルズ地域かと思っていたら、ほんのちょっと出てくるのはSurreyのGodalmingというところなんだそうだ。行ったことのない私にとってはようわからん。
 予告編の中にヘレン・ビアトリクス・ポターを題材にした映画「Miss Potter」(こちらに予告編)があった。「Peter Rabbit」を描いた150年ほど昔に生まれた女性の物語であるが、今年に入って既に英国では公開されているこの映画は多分これでもかと湖水地方の景色が登場するのだろうと期待しているのだけれど、日本での公開はまだ5ヶ月先の9月だそうだ。
 帰りの電車は平日の午後遅くという時間帯の割には結構混んでいて、私たちが乗った車輌はつり革に人がぶる下がって埋まっているかどうかというほどだった。そこに日本語のなんだか訳のわからない言葉がプリントされたジャージーを着た、言葉から明らかに米国人とわかる、年の頃なら23-24位の男が二人座っていた。連れあいが入っていくとそのうちの一人が立ち上がって「douzo!」という。連れあいの隣には同じ年齢くらいの婦人がもう一人立っていて、その二人が譲り合った。すると、もう一人の米国人青年が立ち上がって同じように席を譲っていた。あとで連れあいは「席を譲られちゃった!」と嬉しそうな顔をして見せたが、その二人はその後空いた席に座るや、乗ってきた婦人にまた席を譲ったのである。ところが反対側を見ると日本人の青年は席を譲るどころか、一人で1.5人分のスペースを占めていて、平気の平左である。いつから日本はこんな雰囲気でOKになってしまったのだろうか。そしてこんなことをいうと「気が利かないのは若者だけじゃない、年寄りだって生意気だ」という声がかかるな。ま、私がいっているのは若者だけがこんな雰囲気でOKになってしまったことではなくて、「こうなってしまった日本」のことなんだけれどね。
 帰りに近くの図書館に寄って下記書物を借り出す。

 「50年前の憲法大論争」監修/解説 保阪正康 講談社現代新書 2007.04をようやく入手。
 夜になって風強まり、なんだか冷える。やっぱり「東京03」の出来はよい。これだけ見て「タモリ倶楽部」に行く。注文の少ないホルモンベスト10だっていう。私にとっては全く興味がないが、それでも見る。

*1:躑躅:土曜日の永六輔の「土曜ワイド」でなんでこんな漢字なのかと云う話をしていたなぁ