ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

映画「蟻の兵隊」このタイトルは全国山西省残留者協議会の文集のタイトルから。

 映画にも出てくるが、昭和31年12月03日の「衆議院・海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会」に澄田來四郎元第一軍司令官が参考人として登場している。

澄田來四郎

「後方連絡線が断たれましたので、私の軍の指揮下に総計軍約六万、これに居留民約三万ぐらい、これらの人数をなるべく多数、できたならば完全に日本内地に帰還せしめるのが、私の(当時の)任務」と発言している。引き上げのための鉄路を確保するために、『中共軍』からこれを守るために「しばらくの間、日本軍は旧来の配置を収縮をしながら、その配置に基いて警備を担当しておった」と発言している。しかし、映画の中で公文書館において発見された資料にはこの残った軍の目的は「皇国の天業を恢弘するを本義とする」と明解に書かれており、監督の池谷薫もいうように大本営終戦直前「軍人、民間人を極力残せ」と現地に打電しているというのである。その背景には山西省の資源があったともいわれる。つまりこの兵はある意味亡命軍を意図したといっても良いかも知れないが、後に現れては困る存在となってしまったというのが現実ではないだろうか。第一軍司令官・澄田來四郎は現地軍閥、閻錫山と手を組み八路軍と闘うが、偽名を使い、まるで通行手形のような閻錫山の署名による書類を持って日本に逃げるように帰る。しかし、約2,600名に及ぶ兵はそのまま残され、なおかつ厚生省の公的書類上は現地において軍籍を解かれたものと処理されていたというものである。奥村和一が帰国したのは終戦から9年後、(最後の5年間は中国軍に囚われの身)奥村30歳の年である。
上記衆議院特別委員会に参考人として出席したのは澄田賚四郎以外に元第一軍参謀長だった山岡道武少将、百百和、早坂早坂硎蔵、小羽根建治の4人がいて、それぞれ述べている。

山岡道武

 山岡は「閻錫山がすでに終戦前から軍と特殊の関係にありました。これは昭和十五年からの密約がありまして、お互いに侵さないという密約」と現地ではすでに長い期間にわたって相互関係にあったと発言している。しかも8月15日以降に閻錫山は日本軍が残ることによって初めて自分たちも存在し得るし、日本軍にとっては「おそらく世界の世論を刺激することなく、日本の再建ができるだろう」といっていたのだという。

百百和

 また、百百は「指揮系統を通じていろいろな残留業務が行われたというのが、当時の実際であります。そういうことは、大体昭和二十五年の末ごろまで行われておりました」と証言しており、昭和26年になって、山西の日本軍は、一部が残らなければ復員できないのではないかと聞かされ、太田黒参謀から大隊長に電話がかかってきて、百百に一つ特務団に残る者の編成をやらすように、と命令を受け兵を預かり残ったと発言している。この時、百百は「復員業務上のいろいろな手続があるから、復員書類上においては現地除隊にするように」と命を受けたと明言している。だから、残された2,600名は「現地除隊、自願残留ということになりまして、復員軍人として扱ってもらっておらない、またそういったような戦死者の遺家族の方に対しても、ほかの戦死者と同じような待遇を受けておらない」と現状を述べている。

早坂硎蔵

 続いて参考人としてたった早坂は「兵団長、元少将山田三郎は、われわれの主力は日本に帰って再興をはかる、貴官らは、現地のこのような好条件を利用して、外地に拠点を確保しておりながら、内外呼応して再び日本の海外進出の機会を作ろうというふうな訓辞を受けております。」と証言していて、彼らが半世紀前の国会において明らかになっていながら何故彼らはそのまま放り出されていたのだろうか。早坂の「われわれは日章旗を振って、当時の日本軍の服を着、武器を持って、それが上司の命令、あるいは意図であり、これが日本軍として正しいことである、日本人として正しいことであると信じて、戦争を継続しました。」という言葉は重要である。

小羽根建治

 小羽根建治の発言には私は少なからず驚いたのだけれど、終戦直後の9月に「日本軍と閻錫山との共同をしたところの合謀杜」が設立されていたという。社長は閻錫山の秘書長がなり、常任として軍参謀岩田少佐がこれに当り、総務部長としては第一軍の主計大尉加藤嘉之助が当り、これの宣伝関係には軍報道班長の長野賢中尉がこれに当っていたのだというのだ。その上、澄田が「戦犯だったから軟禁状態にあって」と発言したことに反して「山西に残りました高級戦犯はどのような状態にあったかと申しますと、形は確かに戦犯ではありましたけれども、事実上においてはやはり軍事に参加」していたといっている。

質問-答弁

 この後質問に立った眞崎勝次は元海軍少将で真崎 甚三郎元陸軍大将の弟であることには留意が必要である。眞崎の質問は文字面からだけの推測ではあるけれど、澄田、山岡に対する質問の仕方と百百、早坂に対するものとの間に微妙な差がある様に思える。
次に質問に立った櫻井奎夫は「現実に今のような事態の中で戦死をしたり、そして長い間抑留されて今帰ってきておられる人が、現地除隊という一つのでっち上げによって、正当な待遇を受けておられない、また政府のこの点に対する調査の怠慢を意味するものだ、従ってこの調査は、いつまで、どのような人に基いて調査をしたか、この点を明らかにしてもらいたい」と質問する。
 これに対して厚生事務官(引揚援護局未帰還調査部長)吉田元久は:「早坂参考人の所属しておられた独立混成第三旅団は、編成時の人員が大体9,000人であります。それが残留工作の一番盛んだった末期と申しますか、第一軍の方で残留者の人員氏名をとりましたときに1,068名でございます。その後なるべく帰るんだ、残ると言う者には、もうどうしても帰るんだという指導をされて、軍主力が帰還するときまで部隊に復帰されてこない、すなわち最後まで残られた方は、この旅団においては134名」「百百参考人のおられた114師団の例をとってみますと、この総人員は14,000人でございまして、残留工作の一番盛んだった最終期と申しますか、21年の三月十日、これは軍司令部で調べましたところの調査の報告では、1,506名となっております。この人員がその後軍その他の指導で帰還を勧めて、軍が山西を撤退します21年の五月、そのときまでに大隊に帰らないで、山西に残られた者が575名」「方針は特別の者以外は帰るんだ、どうしても残りたい者以外は帰るんだという工作がこういう数的な観察から見てかなり徹底しておる」と発言して、山西省に残ったものは「どうしても帰る」という意識ではなかったとおいている。
 これに対して百百は「太田黒参謀のところから電話があって、編成をするようにと言われて編成をやっております。」「私たちの参加したところの第三特務団は、太原から川を渡って、離れた彭村に部隊で移動して待避しております。これは特務団の命令によって行われておる。こういったような状況のもとにおいて、当時また部隊に帰るといったようなことはできなかった」と実状を説明した。
 一方早坂は「もちろん全部の兵隊が帰国を希望しておりました。しかしながら、この山西の特殊状況というものから、やはりだれかが残らなければ帰れないというようなうわさあるいは話が上級の方から伝わってくるに従って、残留運動が進められてきて、しかも、それまで私は兵隊にもだれ一人残ってはならない、みんな帰ろうというふうに言っておったのでありますが、昭和二十一年の三月に山西省の太原県の彭村という駅に、当時の旅団高級参謀であった今村大佐に呼ばれて、そしてお前は残るようにきまった、このように言われました。それは困る、私はもう長い間勤めておるし、今度だけはぜひ返してもらいたいというふうに言ったが、しかしだれかが残らなければみなが帰れない、しかも、その残る者はだれでも彼でもいいというわけではない、残る部隊の編成、今後の任務からいってぜも残ってくれ、これは兵站の命令だから、お前は残すというふうに言われました。当時私は大隊の先任中隊長でもありました」と述べていて、話は甚だ具体的である。
 続いて臼井莊一が「残留をいやがって逃亡した者があるのじゃないか」と質問すると、山岡が答えていて、逃亡には様々なケースがある、しかし「私どもは閻錫山側に投降しろという命令でございます。すべて閻錫山側の命令に従って行動しなければならぬ立場になった」そして「逃亡者は閻錫山側の同意を得る人間でございます。従いまして、逃亡者を逮捕するとかいうことも何もできない」としてそれを阻止する力はなかったという。この辺の話を読んでいると、特攻隊は志願であり、強制ではないのだ、という論理と重なるところがあるように思う。
 臼井は「仮にこういう状況で軍が命令をしていたのだとすると「軍人恩給なり援護法なりでどういう解釈」をするのかと聞いている。政府委員厚生事務官(引揚援護局長)田邊繁雄は「われわれが受け取った現実は、現地除隊をしたという形ですべて処理がされてきている」「全般と同時に、一人一人の方について実情を調べるようにいたしております。」「そのときに軍人の身分が切れておる、こういう建前に相なっておりますので、従って、恩給法、援護法は適用にならない」と答えていて山西省の残留兵は除外されているとの判断を示した。
 田邊の続く発言が当時の政府の見解のほとんどを示していると思われる。「私どもの方針といたしましては、この前も申し上げましたが、軍の首脳部が第一線の将兵に対して残留しろということを正式に命令するということは、われわれはあり得ないことであるというように考えておるわけであります。」つまりあの敗戦後に、軍として残るように指示が出るわけがないと云っている。帰国の指示が届かなかった可能性については「今までのところ、命令が徹底しないために現地で除隊の手続をとったものというのは、今まで調査した人の範囲では、まだ正式には見当らないようでございます。」といっていて三人の残留後抑留されていた三人の発言を認めていないというスタンスがわかる。
 続く櫻井奎夫の質問に答えた田邊繁雄は「お気の毒だからこれはこうする、あれはああするという自由は、われわれ事務当局としては許されない。軍人は年金で処置する、軍属は弔慰金で処置する、こういう法律体系がきまっておる」
「山西組の方々で戦死した人がまことにお気の毒であるから、この遺族を援護するために身分をどうこうしようということも実は考えないわけではありませんが、こういうことをいたしますと、他に幾らでも波及してくるわけであります。こういう身分上の取扱いによって、援護法なり恩給法をいかようにも左右することができるということになりますと、またそれで一つの弊害が出てくる」という答弁で誠に官僚の鏡たる姿である。昔からこういうぶった切り方をして自分の仕事のスコープをカチンとさせることによって常に狭い範囲の穴を掘って安全性を高めるやり方を「役人仕事」といってきた。その典型だ。この次の田邊繁雄の発言には私は虚をつかれた思いである。それは「満州国の警察官であるとか満州国の軍人等で戦死をしている方も、現在は援護法の対象になっておりません」というもので、なるほど、日本の傀儡国家であった満州国には警察官、軍人として日本人も勤務していたのだ。そしてここで田邊繁雄引揚援護局長は「未帰還調査部長に対しましては、大へん手数ではございますが、陳情のありました方々に対して、一々その同じところに勤めておった同僚その他にも通信照会をして、当時の状況はどうだったんだということで、いろいろ資料をとって調査を進めさせている」と報告している。きにいらないのは同じ厚生省の官僚相手に「大へん手数ではございますが」とは何事ならん。今だったら大変だ。
 井岡大治(社会党)の質問に対して山岡道武は当時の様子を「そうえらい混乱というほどじゃなかった」とあっさり答え、「将校では今村参謀、大同の高級参謀、塁兵団の元泉小将、砲兵の大隊長が二人、それからもう一人が残ったが後は全員帰った」と答えて残った中の多くは兵であったということを印象づけようとしている。
井岡は引き続き「当時の参謀長としての御見解はどうか」と質しているのに対し、山岡は「各参考人の述べられましたことの中で、事実もありますし、私の知らないこともございますし、また事実間違っておるという点も、これは私の見方だけでございますが、あります」といって間違いがあると指摘している。そして「総軍で御心配になって、宮崎中佐を派遣」してきたことをここで云っているが、映画の中に出てきた宮崎中佐(作戦主任参謀 復員担当)は重たい脳梗塞を患って数年ねたきり。言語に重い障害があり、意識があるように思えないが、奥村和一の裁判についての残念な報告に「お〜!」と声を上げ反応して介護をしているお嬢さんを驚かす。宮崎は第一軍将校の口裏合わせに欺されたことを悔いていたという。
 最後に社会党の井岡大治は「単に法律の建前としては、現地命令で現地除隊ということで、援護はやらない、あるいは打ち切っておる」という方針のようだけれど、引揚援護局長の田邊繁雄がさらに具体的に調べて、そうして、何らかの方法を講じたいといって頂いているように・・と発言すると田邊は「結局復員の手続をとったかどうかという問題に帰着するわけであります。これをそのままにしておいて、何らか適当な援護の方策をとるということは、現在の法律である以上できない」といって断固その可能性を決定的に否定している。
 澄田來四郎はその後の日銀総裁となった澄田登の父親にあたる。
 中国やソ連に長期に亘って抑留されていて復員してきた元日本軍人の多くは共産主義に洗脳されている、としてしばらくの間彼らは公安の監視下に密かにおかれていたという話をよく聞くが奥村和一もその例外ではなかったようである。そういう色眼鏡で見られる傾向というのはどこにでもあり、この厚生省官僚の木で鼻を括ったような対応を見ているとさもありなんであるということがよく分かる。(大変申し訳ないがこの項目は未完)