ほぼ足りてまだ欲 その先

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敗戦直後の話?

こちらの方が18日(水)の沖縄での事件の記事を紹介しておられる。

沖縄タイムス 2007年7月20日(金)朝刊29面
「米車両、学校・直売所侵入 校内で方向転換 うるま・沖縄高等養護」
 【うるま】18日午後5時前、うるま市田場の県立沖縄高等養護学校(塩浜康男校長、生徒数124人)の校内に米軍車両とみられる装甲車が入り込み、方向転換して引き返していたことが19日に分かった。
(中略)
 車両が学校敷地内に入ったのは18日午後4時53分ごろ。付近を通行していた目撃者によると、車両は県道10号を与勝方面から学校のある県道224号に右折。その後左側にある校門に前方から入って車体を方向転換し、そのまま来た道を引き返したという。
 同校では校門前で生徒が生産した野菜を無人販売しており、車で買い求める客がいることから門扉は開けた状態だった。
(中略)
「買い物客ら、不安げ 宜野座
 【宜野座宜野座村漢那の村加工直売センター「未来ぎのざ」の駐車場に18日夕方、米軍の装甲車両5台が乗りつけた。同村は、通行量が多い国道329号に面する同センターへの来客への影響などから、米軍車両の乗り入れを行わないよう、那覇防衛施設局を通して米軍に申し入れた。

 この記事を読みながら昭和20年代の日本の各地ではそこいら中にこういう状況が普通に、というか誰も文句を言えない状況であったなぁと、なんだか巧く説明ができないのだけれども、懐かしいというのでもない、なんか一種異様な感覚を覚えた。決して「あの頃は良かったぁ」と思っているのではないことはハッキリしておかなくてはならないのだけれど、私たち子どもはこわごわと、文句を言っちゃいけないのだと(別に誰かと議論したわけではないのだけれど)なんとなく了解していて、だけれども屈託のない様子で接したいと、勇気を持たなくてはいけないと思って進駐軍を見ていたような気がする。
 昭和30年頃だと思うが、子どもたちが遊んでいる広場に突然ふたりの兵隊が現れた。私たちは柔らかいゴムボールでワンバン野球をしていた。多分3人ずつ位の三角ベースだったに違いない。そこにカーキ色の軍服姿の二人が平然と現れたのだ。一瞬ポカ〜ンとしていたら、「打たせろ」というのだ。打たせないわけにはいかない。なぜなら「いやだ」という勇気なぞ誰も持ち合わせていないのだ。彼らの一人が打席にたち、あの頃私たちの中で唯一カーブを投げることのできた「しげちゃん」が多分投げたと思う。少なくとも私にはとてもそんなことをする勇気はなかったし、なんでなのか知らないがこんな場合は最強のメンバーでなくてはならないのだと何故か思っていたような気がする。何度も繰り返すが、そんな気がするのである。
 で、その進駐軍の兵士がバッカァ〜ンと崖の上にまで打った。僕らの仲間であんなところにまでゴムボールを打った奴はそれまで一人もいない。二人はそのまま歩いて去った。その後僕らがどうしたのかは全く記憶にない。あの打たれたゴムボールは見つかったのかどうかも記憶にない。
 そしてその当時は考えもしなかったのだけれど、あの広場の周りの小さな家々にいたであろうみんなのお母さんたちはどんな気持ちがしていたのだろうかと思う。当時のお母さんたちはほとんど全員が今でいう専業主婦だから、多分それぞれ家にいたんだろう。女子どもしかいない昼日中の、ほとんど外から人が入ってこないあたりに突然進駐軍兵士が入ってきたんだから彼女たちもこわごわと家の中から見ていたかも知れない。そんな気持ちを当時の私は慮る余裕すら、発想すらなかったけれど、今なら想像することができる。
 多分彼らは休みのその日、何があったのか知らないがそうしてごく普通に細い道を歩いているうちにそこに迷い込んだのかも知れない。そこに子どもがベースボールのようなことをしていたから単純に声をかけたのかも知れない。別に威嚇しようとしたわけではないだろう。多分その後の彼らの記憶にも残っていないだろう。
 ただ単に方向転換するために広いところを見つけたから入り込んでぐるっと回っただけということかもしれない。ちょっと休みたいと思ったから車を停めて、ついでに車を点検したのかも知れない。だけれども軍が駐留しているということはそういうことを引き起こす。ただの外国人が遊んでくれたのではないし、ただの外国人が自分の車を方向転換に入ってきたわけではないし、ただの外国人が車を点検していたのではない。駐留軍が地元に引き起こすのはこうした温度差に基づいている。憶測ばっかりの話だけれども。