ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

お前ら、いつこの国を買ったんだよ

 厚生労働省の研究会がまとめた報告書案が26日発表された。「パートや派遣労働といった「多様な就業形態に対応した障害者雇用の促進策」の必要性を強調。現在は雇用率計算の対象外とされているパートの障害者を0.5人と数えたり、派遣の障害者を派遣先企業の雇用率にも算入したりすることで、雇用を後押しするべき(朝日新聞2007年07月27日06時06分)」というものである。この0.5人は派遣元と派遣先がそれぞれ半分ずつをしょうがい者の雇用換算に計上するという考え方である。
 この考え方の根底には「多様な就業形態に対応」といういつもの美味しい言葉がある。派遣、パートを肯定しようとする発案は、常に雇用側が優位になる形態を示すことになる。本当はこんなものは急な時の対応、あるいは予測できない事態の発生に対処するためのものであるべきで、それを保持していくというのが社会を構成する企業の社会への役割だったはずだ。なにも、愛想の良い社員を窓口に配置し、なにかのスポーツの大会に資金を提供して名前を宣伝することが企業の社会への貢献ではないのだ。最も根本的な最も肝心な社会貢献は安定した雇用を社会に提供し、安定した安心できる製品を社会に提供することの筈だ。
経団連は例の要望書の中でしょうがい者の法定雇用率1.8%を実現するためには「労働者派遣法」で規定する正社員への切換制限を撤廃しろという。え?一体なんのこと?と思ったら、しょうがい者を雇用しようとしても、その前に派遣期間満了者の正社員化が立ちはだかっていて、なかなかしょうがい者を雇用する順番が回ってこないという、屁理屈である。馬鹿も休み休みいえっていうんだ。自分の勝手にならないから法を変えろというのである。自分が宗主国に対して顔向けができないから憲法を変えて戦争に突入できる国にしようとするお坊ちゃん政権とここが共通している。
 経団連は御殿場での夏季フォーラムで「学生を成績や論文で評価し、入社から給料に格差をつける仕組みの導入を提案した。御手洗会長は、採用の改革について「平等に採用して会社では年功序列。競争の原理からほど遠く、イノベーション(革新)は生まれない。社会正義を平等から公平に変え、それに沿った学校教育、採用試験、給料体系にしないといけない」と呼びかけた。と報じられている(朝日新聞2007年07月26日21時11分)
平等に採用したら年功序列になっちゃうんだと決めてかかっている前提が既にとっくの昔に大崩していることを知っているくせに、敢えてそれを無視して言いたい放題の御手洗だが、こんなことを平気で言わせておいて良い訳がない。会社に入る時点でもう役に立つ奴と立たない奴は選別して初任給から差がついてもおかしくないだろうという訳だ。ほんのちょっとでも安い労働力、馬鹿になって粉骨砕身働く奴はそれなりの賃金で良いじゃないかという考え方だ。勿論これまでもそうした考えに立っていたのだけれど、表面上少なくとも初任給の上では皆一列に並んでスタートしていた。
 しかし、それすらもったいないんだと。こんなことは厚労省の知ったこっちゃない訳だからすぐにでも来年春から実行される可能性はある。
 こういう話になると自分が現役だった頃のことを想い出さない訳にはいかない。私たちの同期が入社した頃は、なにしろまだ高度成長期の最後のところだったので、会社全体で200人を超えていた。入社して気がつくとすぐにまず事業部が分かれていた。今から考えてみればここで既に第一回目の選別が終わっていた。それでも初任給は一緒だ。ところが、組合が違っていたからボーナスも昇級もそれぞれの組合ベースになるから差がついていた。まぁ、それは自分がどうすることもできない社会の仕組みだくらいに考えていたから、しょうがないんだろうなぁと思った。ところが5-6年経つと社会は荒波の中にいて、景気も変わる。組合の立場が逆転する。すると収入も逆転するのだ。それでもまだ同期会をやると40-50人は集まって大広間で呑んだ。でもそれっきりだった。どんどんそれぞれの立場が変わり、それぞれの居場所が変わり、それぞれの元気度が変わってくるからだ。ヨイショで美味しい人生を切り開いた連中が頑張りを見せ、愚直に地道に頑張った連中はそれなりだった。だけれども、少なくともスタートは一緒だった。それすらぶち壊すのであれば、社会はどんどん薄汚く、ぎすぎすしたものになるのは無理もない。そんな社会の上に立って、「法人税を上げるんだったらさっさとこの国から出て行っちゃうからね」とお坊ちゃんをけしかける、そんな経団連に与する輩に教育を語って貰うほど私たちは落ちぶれては居ない。
 かつて日本の労働者たちは米国の労働者が実に気の毒だと思っていた。景気が悪くなるとすぐにレイオフされてしまって、仕事にあぶれてしまう。景気が良くなるまでどうやって暮らすというんだろうと気の毒だけれども、こっちは会社に入ってしまえばもう大丈夫だと身の安全を知っていたから、激しい労働環境の国でなくて良かったなぁと思ってきた。それでもQC活動だ、会社は家族だという縛りがあって結構不自由じゃないかと思っていた。しかし、今や完全に雇用者が思う通りの雇用形態にあっという間に移ってきてしまっていて、レイ・オフどころの騒ぎじゃない、そんな立場すら羨ましいくらいの日雇いに近い雇用形態になってしまっている。時代が変わって小綺麗になってきたから、かつてのような山谷、釜が崎(いくら地名を変えたってピンハネの町であったことには変わりはない)に見えては居ないけれど、実はどんな職場も全部上前をあからさまにはねることで成り立たせようとする職場になってしまったということである。
 株式会社リケンが地震で操業できなくなったところに自動車メーカー各社が応援を派遣してあっという間に動かしたことを「まだまだ日本の製造の現場は廃っては居ない」と書いたノー天気野郎もいる訳だけれども、倉庫からそれにかかわる労働力までの全てを下請けに全部おっかぶせて自分の利益率を高めるために機能させているという頂点企業の身勝手であることを良く認識しろというのだ。だったら各自動車メーカーは現地の労働者を含めた被災地の片づけに人を派遣してみろというのである。彼らは自分の儲けが時間とともに失われるのを見ていられなかっただけの話である。
小泉―竹中、安倍が経団連のいうがままにこの社会の仕組みをぶち壊してしまうのに任せていてはいけないのだ。
 石原慎太郎いわく、「経団連は大きな存在ですから、ひとつ経済界から国に良い意味での圧力をかけてもらいたい」(6月28日、汐留の企業内保育所御手洗冨士夫日本経団連会長と視察してのあいさつ)」 不良小説を書いただけのこんな男を都知事にした東京都民は本当にご苦労さんなことだ。