ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

何故そんな気になったのだろうか

 というのはあれは1974年か翌年のことだろうと思うのだけれど、当時暮らしていた静岡から友人が経営していた長野県北部の斑尾山のペンションまでとにかく各駅停車の国鉄だけを利用して飯山まで行き、駅前の宿に一泊をして翌朝早めに起きてバスが通る路をてくてくと歩いて上がった。当時はそんなに有給休暇を大手を振ってとれるような雰囲気にはなっていなかったから、多分五月の連休だったのかもしれない。そんな時期の斑尾はあんまり人は上がってこない。ましてや歩いて上がる奴なんていない。
 東海道線の富士から身延線甲府に出た。とてものんびり走った。確か途中駅で30分ほども止まった。誰もいない駅だった。トイレに行きたくもなったことだし、と駅のトイレを捜した。まるで掘っ立て小屋のようなトイレだった。最近の駅のトイレは本当に綺麗になったけれど、当時は駅のトイレは汚いのは当たり前で、それくらいのことに耐えられずにどうするっていうんだ、という世の中だったといって良い。この時の長旅でまず最初に思い出すのはなんとトイレなんだから侘びしいものだ。甲府から中央本線小淵沢に出る。小淵沢という駅はこれまでに何度も小海線に乗るために通過している。ところが駅の外に出た試しがない。周りを全く知らない。で、小海線に乗って小諸に出る。小海線も随分昔から乗ってきた。多分一番最初に乗ったのは中学生の頃かもしれない。最も印象的だったのは1960年代の後半だろう。臨時の列車に乗ったのだから多分あれは夏だ。ガラガラの状況で私が乗っていた車輌はほぼ他に人がいなかった。
 小諸から信越線で長野に至る。あのお寺のような格好をした駅舎だった。そこからようやく最後の飯山線に乗り、飯山に至る。なんとここまでで12時間かかった。家を出たのは午前7時で、飯山の駅に午後7時に着いたのだ。駅前の旅館に部屋を取って、駅前の街に飯を捜して出たが、ほとんどそんな店がなくて、ようやくみつけたホルモン焼き屋でどうにか糊口を凌いだような記憶である。どんな宿だったのかほとんど記憶が飛んでしまっている。
 そのころ富山に出張して駅前にあった、いわゆる商人用とでもいうような木賃宿という雰囲気の宿に泊まったことがあって、そこの部屋の記憶だったのか、それともこの飯山の駅前の宿の記憶だったのか、もう既に判然としないのだ。あの当時、新入り3-4年目で私達の出張経費だとそうした宿がやっとだった。ビジネスホテルという類のものができかかったのもようやくその頃だったかもしれない。そういえば、名古屋や佐世保に行った時は元遊郭だったという旅館なんかにも泊まったものだ。
 朝7時に宿を出て駅の裏にある西敬寺というどうも由緒のありそうなお寺をぐるりと見てからそのまま舗装されたバス道を歩き出した。なにしろ何度もバスや車では通っているのだから、その一本道は間違うことはない。しかし、多分そんな道を歩かなくても良いルートが途中まではあるだろうに、ずっとこの道を辿った。すると車に乗っている時には気がつかないものがいくつも見つかるのだ。例えば意外なほどに単調な部分があったり、周りの畑に植えられている野菜に意外なものがあったり、車からはよく見えない集落に気がついたりした。
 途中のバス停は冬のために小屋がけがしてあった。そんなところに入り込んで、ようやくその頃普及しだしていた小さなガスボンベのコンロを取りだし、お茶を沸かして一休みをした。
 ところでその時の格好である。昔から山に登る人たちは決してジーパンを穿かない。濡れたら最悪だからと。しかし、私はジーパンにネルのシャツである。もちろんまだ肌寒かったからその上にセーターを着て、ウィンド・ブレーカーだったと思う。靴は簡易版の山靴だった。この革靴は今でもある。あるけれど、今履いて歩いたらあまりの重さに膝を多分痛めるだろう。
 そして何に荷物を入れていたかというと、なんと当時流行のフレーム・ザックである。あれは一体どこで買ったのだろう。日本のニュートップというメーカーのものだった。買ったばかりに家に持って帰ってよく見たらアルミフレームの溶接が巧くできていない。それで店に持っていって取り替えて貰った。アルミの溶接は難しかったから品質も米国製に比べたら安定していなかったのかもしれない。それよりも何よりもあちらから輸入されてきたものだったらとても高くて買えなかった。このフレームザックは相当後まで使った。スキーに行く時は下のフレームにスキー靴を固定していたものだ。そんな格好が当時米国のそうした情報をこれでもか、これでもかと雑誌が教えてくれたのだ。
 あのブームはどこから始まったのだろう。新聞社もそうした類の雑誌を随分だした。本棚を見たら読売新聞社が1975年の11月に発行した「Made in U.S.A. - 2 Scrapbook of America」という雑誌がある。4月にその「1」とでも云うものが発行されてとても売れ、それで出した第2弾だ。巻頭は「L.L. Bean」特集なんである。なにしろ表紙がワーク・ブーツだ。バックパックという言葉がやってきたのもこの頃なんだろうか。この雑誌はイラストが小林泰彦だし、プロデュースはあの平凡企画センター(今のマガジンハウスの関連ということなんだろうか)所属となっている木滑良久である。
 この雑誌がジョージア州の小さなディラードの学校が出版した、伝統、伝統工芸などを地元の人々に生徒たちがインタビューした本を紹介している。それが「The Foxfire Book」というものだ。私は当時この本のことを読んでにわかに興味を覚え、どこからどうやって入手したのかとんと覚えがこれまたないのだけれど、その第4巻を入手した。この本については以前にもどこかで触れた記憶があるが、実際にインタビュイーの方々の語りそのものをそのままテキストにしてあるので、テキストだけなのに臨場感がある。立派なライフストーリーとなっているといっても良いかもしれない。Amazonで検索すると40周年記念号というものがちょうど一年前に発行されているようだ。この本はその後日本では紹介されているのだろうか。
 この本でも紹介されているけれど、当時シアーズ・ローバックのカタログを提携していた西武デパートで入手することができた。友人からそれを教えて貰って、当時静岡駅前にあった西武デパートでこれを入手し、まず最初に買ったのが、なんとバンダナだった。これを私はスキーの時にも重宝していたが、最近ではハンカチ代わりにして使った。つまり、あのバンダナはなんと30年間も使ってきたのだ。今やあたかもガーゼなんじゃないかと思うほど柔らかくなって快適だ。最後の二枚は今でも使っている。