ほぼ足りてまだ欲 その先

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センター試験

 こういうシステムになったのがいつからか知らないけれど、全国で一斉に同じ時間に同じペースで同じ問題をなんと54万3千人もの若者が取り組んでいるというのはなんだかとんでもないことのような気がするんだけれど、そんなことはないのだろうか。平然と実施されて終わるというのは凄いものだ。こうした大学受験のためにはこんなに従順なのにそれから先のことになるとそれが全くの話そうはならないのはなんだろうかと思うけれどいやいやなかなかしたたかな判断基準がそこに作用しているのかしらんと、諸兄の底の知れなさに深い穴を覗き込むような気がしないでもない。
 IC何タラを使った英語のヒヤリングテストがトラブって再試験を受ける人たちが毎年出る。最初の年の時は初めてのことだからしょうがないと思っていたけれど、何回やっても同じようなことが起きるということはハードの完成度の限界なのかもしれない。例えばかつての日本の生産現場のあの理不尽なまでの完璧納品主義という思想が既に崩壊しているのであろうし、多分今使われている機材は外国生産品であってこれは最初からそれだけの欠陥品が生まれる可能性はどうしようもない、ということなのかもしれない。ということはこれはどんなことをしても解決のつく問題ではないだろう。
 ここから先は完全に私の偏見である。かつて私が受験していた頃のある種の大学の入学試験、あるいは入学後の学内プレースメント・テストなどでのヒヤリングの試験はすべて教室のスピーカーからだったし、カセットプレイヤーからだった。そんな条件では座った位置で結構環境に差が出る。それでもそんなことをいう気もなかった。なぜか。自分のヒヤリング能力が劣っているからこそ聞き取れないのではないかと思われたくなかったからである。つまり自分一人の見栄のために環境を無視するのであった。
 そんなことを肯定しているわけではない。ないけれど、「武士 高楊枝」的な意味のないつまらない気持ちである。そうかといってそうした気持ちのあり方を私は否定しない。多分この種の問題はどこまで行っても終わらない。
 ところでこの種の試験を導入したことによって大学の英語教育上で大きな変化が見られているのだろうか。わが母校の英語のクラスで見たコミュニカティブの教室で平気で日本語で話す学生の如きはもういないのだろうか。そして高校の教育現場にはどんな変化が現れ、英語教員の世界にはなにか面白い変化が現れているのだろうか。